紅い月がのぼる塔/17.炎の酬い
「せいい、ぶつって……?」
モリは朽ちかけた柵の上段に座っていた。庭に面したその場所は、誰にも邪魔されない兄弟だけの領域になっていた。
横には兄のレンがすがり立ち、幼い弟の間の抜けた目を見て笑った。
「 <聖遺物> だよ。神様みたいな人の遺品だ。それを見る為に、他の街から沢山の人が聖堂に集まるくらいだ。本物かどうかも分かんないのにな」
「本物じゃないの?」
好奇を誘う意味深長な言葉に、身を乗り出すモリ。
「さあな。売れば高額、見せれば巡礼者が金を落とす。最近じゃあ、その為に偽物の取引があるくらいだ。汚いよな。信仰なんてくそ喰らえ。司祭さまも、いきなり <聖遺物> なんて言いだして怪しいぜ。 <布きれ> だぜ。ただの布きれ!」
饒舌に語る兄の横顔を見つめ、沈黙と共に口を開いた。
「それ、マレーナが教えてくれたの……?」
レンは突拍子もない質問に絶句した。弟の顔がいつの間にか曇っている。
「レンには何でも話すんだね。ぼくには話しかけてもくれないのに」
両足を交互に振り始めた。それは決まって拗ねている時のしぐさだった。
「なんだ、おまえ……まだあいつが良いのか?」
呆れて返す兄に、片頬を膨らませて答えた。
「まあ……おれがとやかく言うことじゃないけど」
口を濁していた。つい先日も彼女と唇を重ねた自分にいたたまれなくなった。
「どっちにしろ、おれたちには縁のない話だ。献金も出来ない貧乏人は、恵みすら受けられないってね。おれたちみたいな奴らはおれたちらしく、忍び込むなり何なりして拝めばいいんだ」
レンは笑った。どんな苦境にもめげない爽やかな笑顔は、モリの憧れだった。靄も嵐も吹き飛ばす生命力溢れる兄。そんな兄の頬骨に、今日も紫色の痣があった。
モリは目を伏し、こうして見ているしかない無力な自分を恥じた。
聖遺物。もし、その恩恵を受けられたら、こんな暮らしから抜け出せるだろうか。兄を助けてくれるだろうか。ほんの少しでも。
どんなものなんだろう。見てみたい。
モリは夢見がちな淡い期待を、生きる指針のように描いた。その思いが、酬いとなって崩れ去るまで。
その夜は、眠りの王の厳かな黒いヴェールが、辺り一帯を包んでいた。
数日ぶりに母も静かに眠っている。レンが満足な睡眠を得られるのはそんな時だけ。モリは熟睡する兄を遠巻きに一瞥し、手に蝋燭と火打石を携えると、真夜中の廊下を忍び歩いた。
いつもなら些細な物音にも反応する兄が、今夜は弟の危険な冒険を後押しするように微動もしなかった。
家を抜け出すのは案外簡単だった。隣接するかつての厩舎に、そっと忍び込む。
今となっては荒れ果てた物置小屋と化したそこに、家畜の姿はない。最後に山羊のマルコビッチを手放して以来、ここは辛い思い出の場所となった。
彼は入口付近の壁面を素早く探った。隠しておいた鉄挺を取り出し、再び夜の農道に飛び出した。
走った。誰にも出会わないことを祈りながら、明かり一つない暗闇を駆け抜けた。
聖堂に辿りつくまで、彼は一時も休まなかった。司祭邸の明かりも消え、そこは不気味なほどしんと静まり返っている。
マレーナにこの姿を見せたかった。自分も兄のように大胆不敵なのだと、見せつけてやりたかった。
彼女の部屋に向けて溜め息をつくと、敷地の裏手に回った。
今にも崩れ落ちそうな古ぼけた小さな聖堂。軋む床には補強板が打ちつけられ、必ずそこで躓く者もいる。会衆席も傾き、ミサの間は誰もが細心の注意を払った。
そんなうらぶれた聖堂も、聖遺物が来てからというもの、夜間には鍵が取りつけられた。忍び込むには裏手の傾いだ扉をこじ開けるしかない。
モリは破裂しそうな心臓と闘いながら、鉄挺を扉の隙間に差し込んだ。
先のことなど考えられなかった。ただ見るだけ。聖遺物を一目見ることが出来たらそれでいい……。
幸い板を上から差し込むだけの、質素な閂錠だった。聖堂に忍び込むなど、そんな背徳を犯す者はいない。そこに、司祭の民に対する信頼が表れていた。
切れ切れの吐息を漏らしながら、板を慎重に持ち上げた。水を打つ静けさの中に、施錠の音が鳴り響く。
首を竦め、辺りを入念に見渡した。人の気配はない。とうとう息を殺して扉を開くと、聖堂の中に侵入した。
暗闇だった。震える手で火打石を打つものの、いつものようにはいかない。何度も根気良く繰り返し、漸く手の平ほどの蝋燭に火を灯した。
どこまでも続く深々とした洞窟のように、そこは仄かな絶望を伴っていた。奥歯に響く床の軋みが、あらぬ妄想を連れて来る。押し寄せる闇に叫びたくなる衝動を抑え、壁の穴を潜り抜けた。
その先は礼拝堂だった。辛うじて並ぶ窓にも薄布がかかり、月明かりすら頼りない。
薄く漂う甘い香りに誘われると、蝋燭を頭上に掲げ、祭壇に広がる花畑を見つめた。
途端に花の津波に呑まれた。溢れるほどの献花が祭壇上を埋め、聖遺物を讃えている。
その周りを鉄の燭台がぐるりと囲み、すきま風の漏れる質素な板張りの聖堂で、そこだけが不釣り合いな派手やかさに包まれていた。
更に天井から垂れ下がる菫色の薄布が、厳かな神秘性を醸していた。
燭台に火を灯したモリは、献花の奥を見つめた。そこには、無言の威光を放つ金の箱が据えられていた。
「聖遺物……」
思わず声にした。まるでその箱から覗かれているような、誰かに見られている錯覚がする。
ふと見上げたモリは、壁に掲げられた聖なる肖像を見た。その静かに伏す瞳に、鋭い光が宿った気がした。
湧いた恐怖に足を速めると、箱の前に雪崩れ込んだ。
躊躇う間もなく触れていた。ひややかで堅い感触。指先に当たる細かな装飾の凹凸。小さな手の平に重荷を与え、それでも彼は、阻む蓋を思いきり押し上げた。
重厚な見た目に反して軽い蓋だった。モリでも簡単に開けられたその中には、一見して何の変哲もない布が収められていた。
これが、聖遺物……?
呆然と凝視し、黄ばんで薄汚れた布の切れ端を軽く撫でた。
これじゃ、母さんの服の裾と変わらない。
気付けば吹き出しそうになっていた。所々に濃い染みを残した汚らしい布を、なぜ多くの人が崇めるのか、モリには理解が出来なかった。
その滑稽さに落胆する一方で、彼の頭中には忌むべき考えが生まれようとしていた。
果たしてこれは本物なのだろうか。こんな汚い、ただの布が。もし贋物だとしたら、それでもこうして <聖遺物> として罷《まか》り通るのなら、この布を……。
「モリ……?」
それは突然、礼拝堂に響き渡った。視界に火花が散り、胸に強烈な一撃を感じた。予想もしない恐怖に目眩を覚えると、慌てて聖遺物から手を離し、背中で隠そうとした。
しかし、手の平に蝋燭がなかったことも、献花や燭台に触れていたことも、混乱の中で見えてはいなかった。
「居なかったから心配したぞ」
レンの声だった。献花の影に隠れ、モリからはその姿が見えない。
「おまえがこっちに走っていくのを、 <妖精じいさん> が見てた。直ぐにここだと思った」
モリは少しも動けなかった。道端を徘徊する老人の存在を忘れていたことに震えた。
見られた……。
「ここで何をしてるんだ」
どうして気付かなかったんだ。あんなに注意したのに。
「レン……」背後に生じる、きな臭さ。
そうだ、蝋燭を何処へやった。
指先から額へ鳥肌が立った。これも、邪な考えを浮かべてしまった罰なのだと思った。
「どうしよう……」
一瞬でも、どうして自分にこんな大それたことが出来ると思ったのか。今になって身のほどを知らない愚かさに当惑した。
「聖遺物が……」
もう、終わりだと思った。暗闇を駆ける姿を見られ、こうして聖堂にまで忍び込んでしまった。そして、聖遺物を……。
「モリ!」
たちまち火の手が上がった。祭壇を覆う布に燃え広がり、それは、聖遺物までも紅い炎に包んだ。
モリは振り返った。火柱が壁を走る。献花を焼き、薄布が炎を天井へと連れて行く。
レンが走り寄るまで、朦朧と火の軌道を見つめた。聖なる肖像すら容易く呑み込む炎の猛威に、モリは不思議と、畏敬の念を抱かずにはいられなかった。
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