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紅い月がのぼる塔/16.渇いた愛

 あのクロエの微笑み。私を嘲る冷酷な視線。レンを奪えるものかと、挑発しているように見えた。

 マヤは一階のフロアに立ち、新たに置かれた二つの籐籠を見つめた。勇み立つ指の先が未だに疼いている。

 私に見えない何かが、まだあるはず。必ずそれを掴んでみせるわ。

 外れかけの蓋を持ち上げた。これが新たな餌。その中身は心なしか豊富になっていた。

 モリはちゃんと食べているのだろうか……。気付けば彼のことばかりを考えていた。

──モリは、おれを村の連中に売った。保身のために──

 例えその言葉が事実であっても、私の中で何も変わらない。そうモリに伝えてやりたかった。

 薄闇の廊下に籐籠を擦る音が怪しく木霊した。マヤはひたすら足元を見つめ、重みの増したそれを交互に運んだ。

「手伝うよ」

 その声は前方の柱の陰から響いた。彼女は途端に落雷を受け、耳鳴りの響く衝撃に朦朧とした。呼吸が止まる。それほど、聞き覚えのある不安定な声は、生命の躍動全てを奪った。

 闇から滑り出た人影。それは、素足で軽く床を叩き、迷いもなく直進して来た。

 モリだった。

 彼は言葉を失うマヤを一心に見つめ、大人びた微笑を浮かべていた。故意に泥を塗りたくったのか、かろうじて羽織った一枚布は赤茶けた獣皮と化している。

「手伝うよ」

 その上、おもむろに手を差し出す姿は、酷く落ち着いていた。一挙に時を越えてしまったのか、彼女を直視する碧眼も熱い輝きを放っている。

「どこに……行ってたのよ……」

 前髪の隙間からこぼれる視線に焦がされ、マヤは震える唇を開いた。

「心配したのよ……」少年の腕を強く掴む。

「探したんだから!海に呑まれてしまったんじゃないかと」

 上擦りながら噛みつく様子に、少年は刹那、唖然とした。彼女がどうして声を荒げるのか、痛いほど腕を揺さぶってくるのか、巡る情報の中から答えを探った。

「こ、こんなに心配するとは思わなくて……レンはぼくが居なくたって、いつも気にしなかった。だから、そんなものだと……」

「そんなことない!」更に激しく揺さぶった。

「毎日探したわ。あのままいなくなるんだもの。私は……レンのことに一生懸命で、あなたのことを見なかった。それが先決だと思ったから。でも、この八年間、レンにはクロエがいたけど、あなたには誰もいなかった。そのことに、いなくなって初めて気付いたの。救いが必要なのは、あなたも一緒だったのよ」

「マヤ……」

 彼女の目尻には、微かな光を寄せる涙が滲んでいた。モリはそれを見つめ、繊細な輝きに目を細めた。

「ありがとう」なぜそう言ってしまったのか、彼には分からなかった。だが、これ以上に適した言葉も思い当たらなかった。

「マヤが怒るのはどうしてなのかと思った。でも、昔に似たようなことがあったのを思い出した。母さんだ。母さんも同じことで怒った。その時も『心配した』と言って泣いていた。きっと、それと一緒なんだね」

 マヤの頭を両腕で抱えた。

「ごめんね……」そして、薄いガラスの箱を守るように、懐に抱き寄せた。

「モリ……お願いだから……もう、黙って消えたりしないで……」

 彼の胸に響いたのは、かぼそく消え入りそうな声だった。

「消えないよ。ごめんね、マヤ……」

 顎を撫でる亜麻色の髪に頬を擦り寄せた。出会った日のように、互いの体温が混ざり合うまで抱き合った。

 マヤは不意に頭を上げると、モリの腕を引いた。当惑する少年を尻目に冷えた廊下を歩き出す。

「どこに行くの」

 調理場を通り抜け、その先にある緩い石階段を下りた。

「あの時のあなたは、びしょ濡れだった。その日は夜露が冷たくて、あのままどうしたんだろうと心配だった。それからずっと準備していたの。あなたがいつ帰って来てもいいように」

 石壁に囲まれたそこは、堀に湧き水を湛えた洗い場だった。普段は空気の凍えた寒々しい場が、今宵は暖かい湿気に包まれている。

 堀の脇には薪がくべられ、厚い大釜が湯気を上げていた。その横には、磨かれた底深い木樽が鎮座している。

「これは……」

 モリは初めて見る異様な光景に目を白黒させた。たまに水浴びをするくらいで、彼には洗い場すらあまり縁のない場所だった。

 マヤは樽の中に沸騰した湯を流し込んだ。そして、手際よく湧き水を汲み出し、湯と混ぜ合わせた。

「来て」呆然と立つモリを強引に引くと、樽の脇へと導いた。

「使った形跡がないと思ったら。これが何をする物なのか知らないのね」

 腰ほどの樽に身を乗り出し、呆れながら湯を掬い上げた。

「上流階級しか持たない貴重な物なのよ。まさか、ここにあるなんて」

 怪訝に眉を顰めるモリに向けて、勢い良く湯を浴びせかけた。

「いっ」滑稽な悲鳴を上げた少年は、子犬のように飛び上がった。

「な、なにするの……!」

「じっとしていて。湯浴みをするの」

 モリの腕を強く掴んだまま、容赦なく湯をかけ続けた。

「あつっ!熱い!」

 から足を踏み、腕を放そうともがいた。

「大丈夫、熱くなんかないわ。ほら、私も一緒に」

 マヤはおもむろに湯を被ると、濡れそぼつ髪を振って笑った。

「見て、平気でしょ」

 小さく縮こまった少年の視線は、彼女の肌に貼りつく濡れた衣服を滑った。否応なく目を奪われる光景に、顔から火が出る思いだった。

「酷い格好よ、モリ。どこで何をしていたのか知らないけど、いくら何でもそれは酷いわ」

 近付く微笑から視線を外すと、少年はしどろもどろに吐き出した。

「沼地にいた」

 樽の中に自ら手を浸し、ひび割れた泥を擦る。

「沼地……?」

「うん。マヤの居た場所」小さく頷くと、心もとなく呟いた。

「もし……もしもだけど、もしもここから出ることが出来たら……ぼくも、あそこに行って、いい……?」

 マヤは手を止めた。照れくさそうに溶けて消えた泥をいつまでも擦り続けるモリ。彼が先々に希望を抱き始めたことが、純粋に嬉しいと感じた。

 このまま本当に弟になってくれたとしたら。彼女にとっても、それは大きな希望だった。

「もちろんよ。ここから出ましょう。ここから出て、人間らしい暮らしをするの。あなたならきっと上手くやれるわ。レンと一緒に、帰りましょう」

 モリがこぼした微かな笑みは、思いのほか複雑な色を纏っていた。あらゆる変化を見せる感情の起伏に、首を傾げずにはいられなかった。

「でも……ぼくはここから出る資格はないのかも」

 大釜の湯が再び煮立った。

「兄さんに傷を負わせたのはぼくだ。あんなふうに心を失ってしまったのも、ぼくのせいなんだ……」

 そこにマヤの見知ったモリはいなかった。幼さを残した木訥な口調は消え失せ、どこか儚く大人びた声音だった。

「あなた達のことは聞いたわ。とても大変な境遇だったことも」

 マヤは核心に触れるべきかどうか迷った。彼から自然に溢れるまで待つべきなのか。

「兄さんは本当はすごく優しい人なんだ。当時は小さくて良く分かっていなかったけど、今考えれば……ぼくを守る為に身体を張っていたんだと思う。食べ物を沢山持って帰った時には、身体中に擦り傷や痣があった。そのたびに『おまえは、おれのような人間にはなるな』と言った。でもぼくは……兄さんみたいに誰かを守れる人間になりたいと、いつも思っていた。なのに、母さんがおかしくなるたび、ぼくは怖くて近寄れなかった」

 モリの片手を取った。濡れた袖をたくし上げ、泥のこびり付いた腕を柔らかな布で擦った。

「あなたは小さかったの。今とは違うのよ。何も分からなくて当然、怖くて当然なの」

 モリは首を振った。湿気に濡れた髪から、黒い滴が落ちた。

「母さんは、ぼくには何もしなかった。ぼくには愛していると言った。そのことに甘んじていたんだ。レンは絶対に見せないようにしていたけど、母さんが……彼に何をしていたか……本当は気付いていたんだ。気付いていたのに、分かっていないふりをした」

 腕を引き剥がし、樽の淵に両手を掛けると、水面に映る自分の顔を見つめた。

「あなたの置かれた状況は普通とは違っていた。その中で、あなたも生きるのに精一杯だった。だからこそ、レンはその状況も何もかも、弟のあなたにだけは分かって欲しくなかったのよ。自分を責めないで」

「違う!」モリは突然、水面の顔を思いきり払った。

「そうじゃないんだ!」

 マヤを見つめたその目は、激しい痛みの中にあった。

「レンは……ぼくの <愛> が欲しかった……それだけだったんだ!ぼくからの <愛> だけが、彼が生きる唯一の望みだった。それなのに、ぼくはその望みを、残酷に壊してしまった……」

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