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紅い月がのぼる塔/5.麝香の女

「クロエ!」

 男は煤けた薔薇のアーチを抜け、夜露に冷えた雑草を踏みしめた。吹きさらしの闇夜に反響する潮騒。そこに弾んだ吐息が重なる。

 男の視線の先には、月光を散りばめた煌びやかな馬車が停車していた。黒塗りに銀の薔薇模様を施した豪華なキャリッジ。その御者台からは、背中を丸めた小男が荷を下ろしていた。籐籠の中を確認しては、黙々とフロアに運び入れる。

「遅くなった」

 男は開け放たれた扉の前で一度立ち止まると、上気した息を整えて言った。

「モリが女を攫った。あの沼地の <魔女> だ」

 車体が上下に揺れた。扉の下から覗く細身の紅い靴。その足首を見つめた男は、差し出された片手を慈しむようにすくい上げた。

 踏み台に落ちる両足。車体から現れたプラチナの毛髪。それは、蒼白く浮かぶ胸元の血管を覆い、闇夜に沈んだ光彩を放った。

「クロエ」

 男は揺蕩う紅く豊満な唇を、熱をはらんだ目で見つめた。光を滑らす肌と漆黒のドレスとの対比が艶めかしい、臀部の曲線が印象的な女だった。

「会いたか……」

 扇の骨が空を切った。そして、のぼせた男の頬を無情に打った。

「そう」女は一瞥もくれず、盆状に迫る紅い月を見上げた。

「あの、モリが……」

 不敵に口端を上げ、象牙の骨を優雅に広げてみせた。

 男の頬は赤く滲んでいた。しかし、痛みの烙印に軽く触れると、その感覚を咀嚼しながら恍惚とした。

 辺りには、女の胸元から放たれる麝香《じゃこう》の魅惑的な香りが漂い、斑の空間へと誘う。透けた肌に施された薔薇のタトゥー。それが呼吸を繰り返すたび、盛り上がる乳房の上で花開いた。

「ただの平凡な女だ。君が気にかけるような相手じゃない」

 男の切々とした響きに、女は嘲笑を織り交ぜた。

「気にかける……」

 低くわずかに掠れた声は、男を突き放す残酷な響き。その上、黒く縁どられた切れ長の目は、彼の潤んだ瞳に反して、至極冷徹な光を湛えていた。

「紅いわ」

 女は漸く視線を下ろした。棘のある乾いたそれが、熱い眼差しに絡みつく。

「ああ、満月だ」

 今夜、女と初めて視線が合致した喜びに、男は悦に震えて言った。

 物欲しそうに期待を込めた唇。女はそこに、視線という名の触手を這わせた。唇の山を辿り、口角を抜け、首筋へと流れていく。

 男はそれを目で追いながら、込み上げる疼きに両手を握った。

 次第に鎖骨を滑り、隆起した胸の突起を弄る。腹に落ちていく淫らな愛撫に、とうとう熱い吐息を漏らしていた。

 途端に視線を外した女は、冷ややかに皮肉を込めて言った。

「なんて欲望に忠実な犬、レン……」

 男の名を、レンと言った。せせら笑う嘲りに恥じ入っては、下唇を噛みながら俯く。だが、女はその顎を細い指先で持ち上げると、そっと顔を寄せた。

「卑しく飢えたおまえは、わたしの事だけを考えていればいい」

 衣の下に潜り込む淫靡な視線。その快楽に身を委ねたレンは、朦朧として答えた。

「そうする……」

 女は満ち足りた笑いを浮かべ、垂れた黒髪を掻き上げた。額から顎を覆った黒い焦げ痕。剥き出しの半顔を舐めるように見つめ、そして言った。

「醜い。なんて醜いの。虫唾が走る」

 苦々しく吐き出す口元は、嫌悪と嗜虐に歪んでいた。

 男の唇が屈辱に震えた。しかし、その苦痛に満ちた繊細な横顔に、女は昂りを感じていた。冷えた指先で傷口に触れ、好奇の笑いを浮かべる。

 一方で、辱めの愛撫に対する拒絶と背反する快楽。男の背筋に痺れが走り、尾骨を微かに鳴らした。

「何故、あの魔女を……?」

 レンは閉じていた瞼を開いた。女が質問を投げかけるなど、今までに一度もなかったからだ。

「この醜い傷跡を消す。そうすれば、君を煩わせることはなくなる」

 不可思議に眉を顰め、口端に滑る白い指を紅い舌先で舐めた。

 すると、女は声を上げて笑った。

「馬鹿げている」吐き出すと同時に、指を無慈悲に離した。

「愚かで醜いレン。おまえには、忌むべき邪悪の衣が良く似合う」

 冷徹な笑いを送った女は、物憂く垂れ落ちた両手に触れた。

「おいで」

 レンの耳元に吐息をかけると、その手を自らの下腹部にある、熱い肉塊に当てた。

「啼かせてあげる……」

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