紅い月がのぼる塔/1.捨て犬
マヤは両手からアゴラナイドを滑り落とした。背丈ほどの茎が床を跳ね、放射状に散らばる。
「誰……」
月明かりで燻されたこの母屋に、その姿はあった。
窓下にうずくまる漆黒の塊。しかし、彼女が訝しく思ったのは、それだけじゃない。簡素な錠前がこじ開けられていたこと。おまけに、ここが <母屋> だという事実だった。
この小屋に他人が入り込むことなど、あり得るはずがない。そう、他人だと言いきれる自信もある。なぜなら、彼女は生まれながらの孤児だった。
マヤは丈長の植物を一本拾い上げた。猛毒の美しき湿地の花、アゴラナイド。
そして、唾を呑み下し、頬にかかる亜麻色の髪を払った。
「今日の治療は終わりよ。明日出直して来て」
不躾な訪問者が後を絶たない日々。興味本位に押しかけて来ては「あんたが魔女?」と、嘲りの笑いを浮かべる連中。そんな奴らに、決まって返してやる言葉だった。
私を傷つけるつもりなら、許さない。爪先でにじり寄りながら、破裂しそうな胸に手を当てた。だが、その人影は鎮座した岩の塊そのものだった。
「何が目的なの。ここには何もないわ」
片手は棚の中を慎重に探っていた。動く気配のない相手を見つめ、石と鋼鉄を手中に収めた。
一瞥を向ける一方で、それらを叩き合わせた。同時に暖色の花火が咲き、たちまち燭台を飾った。
彼女はそれを突き出すと、人影を素早く炙り出した。途端に悲鳴に似た鋭い呼吸を漏らしながら、滑るように駆け寄っていた。
そこに居たのは、両足に手酷い傷を負った、壁にもたれる少年だった。
「どうしたの……」
二の腕に顎を置き、歯を食い縛る少年。それは、獰猛な獣とは似ても似つかない、傷ついた捨て犬だった。
「じっとしていて」
脳裏をかすめた疑問が一瞬にして消滅した。それよりも、治療者としての血が騒ぎ出すのを感じた。
四方の柱に明かりを灯した。簡素で清潔な家具が浮き立ち、壁の木目に影を落とす。住み慣れたこの場所を、彼女は手際よく回った。
桶と布を用意する傍らで、湯を沸かした。そして、棚に並ぶ小瓶を流し見ては、一本を選出した。
「痛み止めをあげる。顔を上げて」
蒼ざめたその頬に、そっと手を伸ばした。しかし、過剰に飛び退いた少年は、魔物と鉢合わせた者のように後ろに倒れた。その敏捷さに、マヤは思わず困惑した。
「落ち着いて、大丈夫。痛いことはしないから、落ち着いて……」
努めて穏やかに語り、距離感を保ちながら微笑んだ。頬に薄く窪んだエクボが、色のない顔立ちに華を添える。
一方で少年は、壁が母親とでも言うようにすがりついていた。口元まで伸びた前髪から片目だけを覗かせる。
「痛み止めよ。楽になるわ」小瓶の口に匙を当て、飴色の液体を注いだ。
「口を開けて。甘い蜜よ」
少年の怯えた目はマヤを凝視していた。微笑を浮かべた口に視線を移し、鼻先にある匙の先を見つめた。
粘性のある艶やかな液体。その輝きは、琥珀のように魅惑的だった。
「舌の裏側に含むの」マヤは口を開けると、自らの舌裏を指差した。
「ゆっくりと舐めるのよ」
少年は彼女の唇と瞳を交互に見つめ、口をもごもごと蠢かせた。そして、最後に目の奥を直視しながら、恐る恐る匙を咥えた。
「いい子ね……」マヤは雛鳥に餌付けをしている気持ちになった。
それとも、これが母性というものなのか。大人しく匙を咥える少年に、いいようのない保護欲を感じた。
どこから来たのだろう。まるで、森から零れ落ちた野性児のよう……。
液体を飲み干す頃には、少年は幾分落ち着きを取り戻していた。
「私はマヤ。あなたは……?」
湯に浸した布で、手の甲から順に拭いてやった。頭の先から爪先までが薄汚れ、饐えた臭いが漂う。一枚布の衣も穴が開いてほころび、満足に生活しているとは思えない。年齢のわりに肌艶が悪く、その上、痩せ細っていた。
捨てられた野性の獣。非力に見える憐れな姿が、彼女の警戒心を解きほぐしていた。
「モ、モ、モ、モ……」咽喉の奥から異物を吐き出す呻き。
「モ、リ……」
一瞬だったが、彼女はその声音に狼狽した。鈴のような軽やかなものを想像していただけに、変声したばかりの不安定な音に違和感をおぼえた。
「モリ。モリというのね」無言で頷く少年を半信半疑に見つめた。
「モリ、あなたはどこから来たの?どうしてここへ」
顔を塞ぐ前髪をそっと掻き分け、温かい布を額に当てた。モリは毛穴から染み込む温もりに、緩慢に目を伏せた。
マヤは不思議な来訪者をくまなく観察した。発育が悪いだけで、見かけより大人なのかもしれない。良く見れば、長い睫毛、小さな鼻、膨らみのある唇、ひとつひとつが端正で見事な作り。身なりを整えれば、それなりになるはず。
「たかーい、たかーい、たかーい……」
匙を無頓着に放り出したモリは、天井を見つめて言った。
「高い……ちょっと沁みるわよ」
ふくらはぎから腿に走る大胆な擦り傷。そこから滲み出た体液を湯で洗い流した。
モリは獣さながら咽喉を鳴らし、身体を強ばらせた。
「家まで連れて帰ってあげる。ここはあなたが居る場所じゃないの。どこから来たのか教えて」
両足首までを桶に浸した。血色の悪い足先が、たちまち紅色に染まる。
続いて清潔な布で足を拭き、油を塗ってやった。しかし、彼はそれを呆けて見つめるだけだった。
「分かる?家の、場所を、教えて」
幼子に話すように明瞭に発した。すると、モリは指先を天井に向けた。
「高い、たかーい、場所」
大声を上げ、興奮した両足を擦り合わせて揺すった。
「月。岩。高い、塔!」
「塔。高い、塔……?」
足を力任せに押さえ、その言葉に思いを巡らせる。
「月、岩、高い、塔!」
マヤは、はたと思い当たった。いや、その場所以外には考えられない。でも、それは、あってはならない場所。
「塔って、月の、塔……」
「月、塔!」
彼は無邪気に、はしゃぎ始めた。そして、勢いよく立ちあがると、窓から外を指差した。
マヤの背筋には、冷たいものが走った。
彼の指の先には、紅く巨大な満月が浮かんでいた。それを背に、不気味に浮き立つ塔の先端が、木々の天辺を貫いていた。
月の塔。ゴーストが住まうと言われた呪われた城。そこから来たというの。まさか……。
モリは突然、はしゃぐのをやめた。そして、彼女のつむじを見下ろし、顔色を変えると、妙に冷えた声音で言った。
「あんたが、魔女……?」
マヤは顔を上げた。しかし、身を離すよりも早く、モリの手が伸びていた。狼狽で反らす頭を強引に引き寄せ、口と鼻を海綿で塞いだ。
──マンドラゴラスの匂い……──
唸る間もなかった。両腕をだらりと垂らしたマヤは、激しい脱力に意識を深く沈めた。
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