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紅い月がのぼる塔/13.消えた絆

「おまえはおれに何を呑ませた」

 怪訝に目を眇めたレンは、膝の上からリュートを下ろした。

「まるで魔薬のように……意識が別の場所にある。気付けばこうして口を開いた。おれが語っているんじゃない。別のおれが、彼方から見下ろしているようだ」

 蘇る記憶に不当な仕打ちを感じ、唇の端を小刻みに噛み始めた。

「毒蛇の一部とスタフィサグランの種子。いずれも行き場をなくした魂を浄化するものよ。でもこれは単なる始まり。あなたの変化に合わせて調合も変えていくわ」

 マヤは嬉々とした笑みを浮かべると、身を乗り出して言った。

「あなたの反応はとても素直ね。薬《レメディ》に対して敏感だわ。思ったよりも早く治癒するかもしれない。見下ろして感じるのはあなたの魂。何ものにも左右されない、真実のあなたよ」

 濁りのない真摯な情熱に、レンは暫し戸惑いを感じた。過去を抉られる不快も事実だったが、口先から放たれた言葉が自由を得るのを感じた。

「魔女め……」

 吐き捨てた雑言の中にも、微かな揺らぎが混じる。

「村の人たちは何を話していたのかしら。あなたを許さないことって……」

 マヤは木彫りの人形を思い出した。モリが創り上げていた村人たち。大切に箱庭に収められた彼らが、許さなかったこと……。

「盗み。飢えた女を誘惑しては、食糧を手に入れた。生きる為には何でもやった。十五のおれが狂人と幼い弟を抱えていたんだ。目を離すことも出来ず、満足に働けない。全ては生きる為……後悔などしていない」

 レンは瞬き一つせずに、冷たさすら感じる静かな口調で語った。

 やはり、人間なのだと思った。かつては母や弟の為に死力を尽くしていたレン。固く凍ってしまった心の奥には、まだその頃の血潮は残っているのだろうか。全てが粉々に砕ける前に溶かす術はないのかと、治療者としての決意に拍車がかかった。

 振動と共に、広間の扉がけたたましく開いた。窓際から振り返った二人は、そこに厳めしく立つモリを見た。

 彼は一枚布を纏ったまま、頭から水を被っていた。止まることのない滴りが足元に水溜りを作っている。

「どうしたの、モリ……」

 呆然としたマヤを横目で見つめ、少年は兄に向かって力強く歩き出した。

「兄さん……!」

 背もたれに身体を預けたレンは、組んだ足を解くこともなく、静かに弟を見つめた。

 鋭く冷やかな視線。それに対する熱い炎を抱えた情熱の瞳。二人の視線が合致し、喰いながら絡まり合った。

 兄の前に立ちはだかる弟。その両手は汗ばみ、握りしめた拳を濡らす。

 クロエが来ていたのだと、声を大にして言いたかった。レンの為ではなく自分の為なのだと。もし、告げたとしたらどうなるだろう。

 しかし、モリは吐き出す寸前で思いとどまった。

 彼は発狂するだろうか。犯されたのだと告白したら、どんな反応を示すだろう。もしかしたら、殺すかもしれない。クロエではなく、弟の自分を。

「どうした」

 淡々と威圧に満ちた声音が降り注いだ。何かを告げる口を塞ぐように、容赦ない睨みを突き刺す。

 モリは今になって後悔した。告げたからと言って何も変わらない。溝が深まるだけで修復の希望は潰える。今のレンにとって、クロエ以上の者はいない。彼女を守る為なら、弟を殺すことも厭わない。

 言葉を失っていた。胸が震えるばかりで、焚いたはずの炎が惨めに消えて行く。

 少年は勢い良く踵を返すと、追われるように逃走した。

「モリ!」マヤは立ち上がりながら、微動もしないレンを見た。

「様子がおかしかったわ。あんなに濡れて……何かあったのよ」

 だが、男の瞳は暗く沈んだまま、視線一つ動かそうとはしなかった。

「あなたの弟よ!」

 落胆の一瞥を投げかけ、モリの後を追いかけようとした。すると、その背中に向けて、断固たる言動が飛んだ。

「行くな」

 気付けば縄をかけられていた。身体ではなく、その精神に。強く引く手綱に足を止め、ゆっくりと振り返った。

「行かせない。あいつを追うつもりなら、ここで終わりにする」

 マヤは眉間を顰めた。彼がどういうつもりでそれを言ったのか、理解ができずにいた。

「奇妙なことを言うのね。あなたがそれを望むのなら、終わりにしても良いのよ。でも、私がそれを鵜呑みにしないのを知って言っている。そうやって、また私を試しているのね」

 レンの口端から白い歯が覗いた。そして、手招きをして言った。

「ここへ来い」

 後ろ髪を引かれる思いだった。モリの様子に言い知れぬ胸騒ぎも感じる。だが、漸く開かれた扉を閉じる訳にもいかない。取捨選択を迫られ、苦悩の果てに歩みを進めた。

「命令しないで」

「おまえを渡さない」

 レンは彼女の腕を掴むと、勢い良く引き寄せた。

「どうしたいのよ。あのモリの様子が気にならないの。あなただってモリを愛していた。彼の為なら何だってやったわ。この私にも、その気持ちが分かるような気がしたの。あなたも……本当は気になるのでしょう」

「朔だ」

 レンはその問いに答えなかった。代わりに更に身を寄せ、顔を突きつけて言った。

「朔になれば、おれはクロエの元に堕ちる。おまえにそれを止めることができるか。おれはクロエを愛している。全てを引き替えにしても。そのおれを、彼女から解放してみせろ。おまえの力で……」

 マヤは息を詰めて狼狽した。

「彼女から、解放」

 レンの口から禁断の呪文が放たれた。近づく漆黒の瞳を直視し、その奥にある真意を探った。

「それが、あなたの本音なのね……」

 男はマヤの首筋に手を添え、うなじへ滑らせた。

「おれに言わせているのは、おまえの力のせいなのか」

 後頭部を両手で掴み、互いの額を痛いほど押しつけた。そこから伝わる微弱な震え。

「薬《レメディ》のせいだけじゃないわ。あなたの中の埋もれた魂が姿を現しただけ。でも、怖がらないで、大丈夫。これが治癒の兆候なの」

 彼の中に二人の人間が共存している気がした。クロエを身を裂くほど恋焦がれる者。その呪縛から逃れようともがく者。

 目を閉じたレンは、貼りつく蜘蛛の巣を払うように頭を振った。口を歪め、歯を食い縛った隙間から、荒い呼吸が漏れ出た。だがそれは、次第に絞り出す苦笑に変わっていった。

「おまえは血の繋がり以上の絆はないと思っているが、それは <まやかし> だ」

 マヤの耳たぶに唇を寄せ、わずかな囁きを零した。

「あいつは……モリは、おれを村の連中に売った。保身のために……」

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