紅い月がのぼる塔/14.黒い月
モリは消えた。
広間を後にした瞬間、夜霧にさらわれてしまったのか、姿を現さなかった。
マヤは欠けていく月を見つめながら、岸壁から黒い荒波に向けて叫び続けた。
「モリ!」
──おれがどうなったか……──
レンの囁きが、いつまでも耳壁にしがみついては反芻した。
「厩に繋がれたまま、ふた月監禁された。食事も満足に与えられず、奴らは……おれの人間性をことごとく奪った……」
マヤは石階段の下に倒れ込み、胸につかえた岩の塊を涙と共に吐き出した。
十五歳のレンが抱えた運命。幼くしてその運命に付き従ったモリ。彼ら兄弟が神から与えられたものは、想像以上に過酷なもの。その片鱗すら掴めなかった自分に、初めて無力感を味わった。
「どこに居るの……モリ……」
もし、あの後を追っていたら、彼が消えることはなかったのだろうか。あの時、モリの話を聞いていたら……。
冷えた空気が肌を刺すたび、絶え間なく降る自責の念に潰された。しかし、幾度の夜がやって来ようと、彼の影すら感じることはなかった。
「モリ……」
朔が近づくにつれ、広間を渡るリュートの音が、力強い調べに変わった。彼女がどんな言葉を投げかけようと、レンは口を閉ざしたまま、バルコニーの果てに存在するはずの外界を見つめた。
マヤはそんな彼の横顔を眇めると、小瓶を置いて立ち上がった。
「これ……新しく調合したものよ。せめてこれだけは呑んでちょうだい。クロエと過ごしても、あなたが協力的なままで居ることを望むわ」
今宵、月も消える。
「それだけか」レンは漸く瞳だけを動かした。
「結局おまえは止められなかった。おれの魂は何一つ変わっちゃいない」
苦笑混じりの皮肉に乗せて、弦を上下に揺さぶった。
彼女は無言で立ち止まった。どんなに侮蔑されようと、この機会を逃してはならない。クロエがどんな人物なのか見ておかなければ。その為にも、男を泳がせる必要があった。
「脆いな」レンは花の香が舞う空気を捉えて言った。
「おまえも <あの女> と何ら変わらない。モリが消えたことを気に病んでいる。おまえの思考は『何故あいつが忽然と消えたか』それを探るのに精一杯。まず、そんなところだな」
その明け透けな嘲りに煽られ、彼女は軽く唇を噛んだ。
「おまえは何の為にここに居る。おれは言ったはずだ。満足するまでここから出さないと。今のおまえは治療者じゃない。情に流された、ただの哀れな女だ」
反論など出来なかった。突然芽生えた不安定な感覚。軸さえあれば何があっても揺らがないと思っていた。その信念が、実体のないモノに脅かされようとしている。
「そうよ。自分でもどうかしていると思う」マヤは黒ずんだ床を見つめた。
「今まで孤独を選んで生きてきた。失う寂しさを抱いたこともなかった。だけど、誰かの気配を感じて過ごすうちに、それを失うのが怖くなった。愚かなことだと分かっているわ。でも、どうにもならないのよ」
波打つ亜麻色の髪を隔てた先には、力なく項垂れた頭。男は萎んだ背中を凝視すると、爪弾く指を止めて言った。
「消えろ、目障りだ」
広間から飛び出していた。背を押されるまま階段を駆け下り、その足でモリの部屋に雪崩れ込んだ。
レンの言う通りだと思った。これ以上ないほどの孤独を味わって来たはずなのに、心の底に開いた穴は更なる孤独を生む。無邪気に慕ってくれた弟のような存在は、いつの間にか心の拠り所にまで膨らんでいたのだと知った。
マヤは辺りをぐるりと見回すと、彼の残した気配を感ずるべく塵一つまで見つめた。
そこは、寝具すらまともに置かれていない、獣の褥さながらだった。
埃にまみれた片隅に、鳥の巣と見紛う布の山。その中で眠っていたのだろうか。ほんのわずかな筒穴が、モリの形を模っていた。
横には黄ばんだ古書が積み上げられていた。それらを片っ端から開いてみては、彼が好んだであろう詩集を眺めた。
一方の片隅には、あの箱庭が置いてある。大切にしていた木箱。これを置いて戻らないはずはない。黒ずんだ蓋を持ち上げ、並んだ人形を目にした途端、せり上がる嗚咽が口の端に漏れた。
──ここなら安全だよ──
木彫りの <マヤ> は完成していた。
彼の望み通り、マルコビッチとモリの間で、温かい微笑みを浮かべていた。
真の暗闇がやってきた。
月の消えた闇夜に溶ける鈍色の塔。岸壁に打ち寄せる激しい波が、嵐のように轟き渡る。石壁に反響する海風も、今夜は生温い湿気をはらんでいた。
マヤはコンコースの柱に身を隠した。夜目だけを頼りに門を見つめる。
間もなくクロエが来るはずだ。荒れ狂う波音に耳を澄ませ、馬のいななきが届くのを待った。
髪がねっとりとした重みを含む頃、微かないななきが聞こえた気がした。
幻の女が、とうとう現実に降り立つ。鼓動を伴う血液の逆流に、振動する胸を押さえた。
ほどなくして、アーチを潜る人影があった。手にランタンの明かりを携え、草むらを小走りに駆ける。浮遊する丸い光と一緒に、それは門の前で立ち止まった。
レンだった。マヤは少しずつそこに近寄ると、遠方に朦朧と浮かぶ光の筋を見つめた。
石畳を蹴る蹄の音。続いて車輪の軋みが響くと、門を滑り抜ける黒光りの馬車が現れた。それは、御者の手綱に合わせて、レンの側に巧みに止まった。御者台を照らすランタンが、その周囲だけを幻想的な光で包む。
「クロエ」
レンはすぐに車体の扉を開けた。傍らでは淡々と荷を下ろした御者が、その物を月の塔へ運び込んでいた。
息を殺したマヤは、岩壁の隙間から首を伸ばした。地を抜けた雑草が姿を覆い隠す。
車体の奥からは、手を引かれた紅い女が降り立った。彼女が地面に足を置いた途端、男は結ったプラチナの髪を乱暴に掴み、掻き毟りながら抱き寄せた。そして、激しい口づけを交わした。
マヤはとっさに口を覆い、呼吸を呑んだ。
真紅のドレスが薄明かりに沈む。遠目で分かるほど豊満な姿態に、まるで塗られたように貼りつく薄布。腿の切れ込みからは、白木の脚が艶めかしく突き出ていた。
女は握った扇を落とすと、男の背中に腕を回した。互いの衣服を掴み、強く抱き合ったまま、暫く唇を離さなかった。
あれが、クロエ……?
夜目だからだろうか。マヤには宝石を纏った華麗な貴婦人に見えた。確かに魅惑的な身体ではあったが、彼らを飼う女とは凡そ思えない。
更にクロエの身体を車体に押し付けた男は、手の平を剥き出しの腿に這わせた。続いて濃厚に上へ滑らせ、衣の隙間に差し入れた。
細い喘ぎが上がった。弓形に反る紅い背中。軋む車体。直視できなくなったマヤは、羞恥に顔を伏せ、目の前を塞ぐ葉脈を見つめた。
御者が戻る頃、二人は漸く身体を離した。再び顔を上げ、動向を観察する背中に冷たい汗が流れた。
後れ毛を直す女の仕草は、怠惰な色香を醸していた。その横で細腰に手を添える男。彼の顔には、見たこともない微笑みが浮かんでいた。
これが、二人の姿。
釈然としないものがあった。これでは男女の逢引と相違ない。情熱的ではあるが、レンを支配しているとは思えなかった。
二人は身を寄り添うように背中を向けた。先に馬車に乗り込み、手を差し出すレン。それに手を掛けたクロエ。
そのまま車体に乗り込むかに思えた瞬間、女は、ふと振り返った。
振り返って、マヤの目を直視した。
思わず咽喉が鳴った。マヤは驚愕に身を伏せ、鼓動と息を殺した。頭を抱え、微動もせずに、車輪の音が遠ざかるのを待った。
クロエは私が居ることに気付いていた。絶対に。そうだ、最初から知っていながら……。
足元から震えが走った。
女が振り返って見せたもの。それは、冷淡な鋭い視線に、勝ち誇った残酷な微笑みだった。
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