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紅い月がのぼる塔/9.箱庭

 ランタンの明かりが灯る小部屋にマヤは居た。

 天井が低く穴倉さながらの壁に、年季をにおわせた黄ばんだ瓶が所狭しと並んでいる。その中で揺れる飴色の液体。細かく刻んだ植物を浸し、光の屈折を生んでいた。

 マヤは足元の籐籠を持ち上げた。蓋つきのそれには、枯れ枝と見紛う乾燥蛇が詰まっている。

 瓶詰めの種を一粒取り出し、蛇の尾と共に磨り潰した。そこに、ランプで煮立てた乳汁を加え、滑らかに濾した。最後に糖と混ぜたそれを、小さな白い粒状に固めた。

──おまえに愛が分かるか──

 鼓膜に響き続けるあの言葉。あれ以来、その意味を反芻する。

──おまえのように愛を知らない、孤児に──

 彼女はふと手を止め、両腕の間に頭を落とした。

 モリに対して本能的な愛を感じた。守りたいと心から思った。もし、私に人並みの愛情があるなら、これが初めて感じる愛だと思った。でも、それとは違うというの……?

 胸の中心に、ごつごつとした黒い穴が開いている気がした。萎びていく身体の繊維。見えない答えを求めるたびに、焼けつく石を口から吐いた。彼女は己を抱きしめ、崩れそうな骨を両手で支えた。

 魂を引き出されることを望みながら、それを拒むレン。彼の言動をひたすら辿り、今必要なのは何かを考える。必ず治療のチャンスが訪れるはず。それを逃さないようにしなければ……。

 小窓の果てに、弦月が浮かんでいた。紅い満月の挑発的な威圧に比べ、なんと厳かで静寂な美だろう。刹那その魅惑に浸りながら、油の切れかけたランタンを持ち上げた。

 沼地に全てを置き去りにしてから、知らぬ間に時が過ぎていた。郷愁などあるはずもないと思っていたのに、腐敗した葉の香りすら懐かしく感じた。

 小部屋を出たところで漸く気付いた。室内から漏れる明かりを頼りに、廊下に座り込むモリが居た。

「どうしたの、こんなところで。中に入れば良かったのに」

 そこは真夜中の底冷えがしていた。彼は寒さを感じないのだろうか。いつもの薄着のまま、手元の作業に没頭していた。

「レンが起きてる。まだ地下に居るの。地下は駄目だよ、絶対に。ここにいなきゃ」

モリは手の平ほどの丸太を握り、それを小刀で器用に削った。

「地下……ここに地下があるの?」

 初耳だった。彼女なりに、くまなく散策したつもりでいた。それでも、その気配すら感じなかった。

 モリは漸く顔を上げ、複雑な色合いで眉を顰めた。

「うん。だけど行っちゃ駄目なんだ。クロエとレンの部屋だもん。見つからないよ、外じゃなきゃ。クロエの為だよ。ぼくが行くと打たれる。だから、マヤも行っちゃ駄目だよ」

「クロエが来ているの?」

 モリの前に明かりを翳した。収縮した瞳孔の周りに、玉虫色の膜がかかる。

「ううん、レンだけ。クロエが欲しいの。弦月と一緒に欲しがるよ」

 視線を丸太に戻し、再び真剣に削り始めた。

「彼はそこで何を……」

 カリカリと小気味いい音色が響く。足元の古びた木箱の上には、細かい木屑が降りかかっていた。

 モリは答えない。溝に溜まるカスを吹き飛ばし、滑らかに一刀を加えた。

「それはなに」

 消えかけた脆弱な火を近づけ、横合いから覗き込んだ。

「マヤだよ」

 朴訥な呟きに目を丸くしたマヤは、頬に薄いエクボを浮かべた。

「すごい……とっても上手」

 木彫りの人形だった。髪のうねり、身体の曲線、細かな服の皺まで刻んだそれに、見入った。

 モリは密かに口端を上げ、唇を舐めた。彼女は気付いていないのだろう、亜麻色の柔らかな毛先が二の腕に触れていることを。

「い、いっぱい作ったの」

 呼吸すら忘れる胸の高鳴りに声が上擦る。それに赤面した少年は、おもむろに木箱の蓋を持ち上げた。

 箱の中には何体もの人形が整然と並べられていた。マヤは今以上に感嘆の声を漏らし、それらを繁々と眺めた。

 人形だけではなかった。木彫りの家屋、動物などが犇《ひし》めき、その隙間に生の乾燥花が彩りを添えている。

 マヤは発する言葉を失った。刻まれた一刀一刀からは、対象物に対する愛と温もりが溢れ出ている。

「ここは……モリの、お庭なのね」

 表面を滑らかに磨き上げていた。箱庭で眠る住人たちは、モリに大切に守られ、とても幸せそうに見えた。

「レン」

 モリの指し示した人形は、ひときわ繊細で丁寧に作り込まれていた。しかし、マヤの知るレンの面影はない。笑顔に重きを置いた、短髪で躍動的な姿だった。

「これ、母さん」

 モリは唇を突き出して言った。規則正しく並ぶ中、その人形だけは不自然に傾いでいた。

「綺麗なお母さんね」

 波打つ長い髪が印象的な、細い鼻筋を持つ人形だった。その言葉に深く頷いたモリは、下唇を噛んで笑った。

 それからは堰を切ったように語り始めた。

「これがぼくたちの家。これが飼ってた山羊。名前はマルコビッチ=スワロウ。レンがつけたんだ。酷いセンスだよ。これが近所に居た犬。馬鹿犬で良く吠えるの。これが道端で寝ていた <妖精じいさん> 夜中に歩き出すんだ。みんなは気味が悪いって言ってたけど、本当は妖精と話をしてたんだよ。これがマレーナ。ぼくの初恋。可愛くて、ませてたんだ。これが……」

 饒舌に語る口元。目まぐるしく変わる表情に、マヤは心地良さを感じた。

「この人は誰なの」

 刃を当てた跡があるものの、丸太に程近い未完成の人形があった。モリはそれを見つめると、口ごもりながら言った。

「父さん」指で平らな顔を擦り、不満足に鼻を鳴らした。

「知らないの。消えちゃったんだって」

 すげなく呟くと、人形たちの配置を変えた。少しずつ丁寧にずらしては間を詰める。

「マヤは誰かいる?」

 彼女は身体が冷えて来たと思った。ランタンの明かりも心もとない。

「誰もいないわ」両肩を竦めて微笑んだ。

 モリはふと顔を上げると、いつになく真摯な瞳を向けた。薄闇のせいか、それは大人びて見える。

「誰か欲しい?」そして、マヤを穴が開くほど見つめた。

 彼女は緩やかに手を伸ばすと、モリの頬に触れて微笑した。

「弟が欲しい。もし、いたらどんな感じになるんだろうって、時々想像するの」

 絹に似た頬を軽くつねり、前髪の隙間で輝く碧眼を見つめた。

「じゃあ、大丈夫だね」モリは目の奥に水を湛え、それを瞬かせて言った。

「ぼくがいるもん。マヤの弟になる。レンとマヤの。ね」

 マヤはいつしか拒否していた痛みを味わった。両手で頬を捏ね回し、笑い声を上げる少年を抱きしめた。

「あなたが弟なら、本当に良かったのに」

 耳元で囁く彼女の声は、仄かな灯りの中へ溶けて行った。モリはその声を胸で聞き、肩越しに見える暗闇を見つめた。

 少年はひと時の後に身を離すと、一番小さな人形を指さした。

「ぼくだよ。マヤはここに入るの。ぼくとマルコビッチの間。ここなら <安全> だよ」

 安全。マヤは <安心> の間違いではないかと思った。彼らの間は安心なのだと。

「そうね、これで <安全> だわ。ありがとう、モリ」

 しかし、顎にかかる前髪を指先で掻き分け、彼の言葉を繰り返した。

「うん、 <安全> だよ」

 モリは照れくさそうに顎を引くと、澱みのない眼で直視した。

──ぼくが守る。マヤ……──

 ランタンが、じじじと鳴って消えた。

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