七 見えない嵐
「柳瀬は無事なんだろうな」
ボクは松明を持たされ、奴に背中を小突かれながら言った。岩山の内部は思った以上に広く、曲がりくねった道を何度も分岐する。それは迷宮のように複雑で、入り口に引き返すのは不可能に近かった。
「無駄口はなしだぜ、お嬢様。オレは一人で来いと言ったはずだ。約束を破った奴にはそれなりの制裁を加える」
アンクーはそう吐き捨てると、さらに強く押した。
「罠をかけたのはおまえだ!」
バージとエドモスを片付けるのは計算済み。最初からそのつもりで計画を練っていたはずだ。
「簡単には渡せねえ。楽しませて貰わねえとな」それは耳元で聞こえ、嘲笑交じりの吐息がかかった。
「それに、貴様らは間違いを犯した。まさか妖霊を切り裂くとは。まったく手段を選ばねえ奴らだぜ。どうせ、あの爺さんの入れ知恵だろうが。奴は真の名を呼ぶ者を守る為ならなんだってやる。おまえはその正体を知らねえ」
顔が見えなくとも、苦々しく歪んでいるのが分かる。ブロジュのことだろうか。彼が誰よりも忠誠を誓っているのはボクにも届くけれど、そういうことじゃないのだろうか……。
「なんにせよ、これで宣戦布告。妖霊共はどう出るか面白くなってきたぜ。殺されないようせいぜい自分の身を守ることだな」
奴は笑いながら更に奥へと押した。前方に光が漏れている。そこを目指して進んだ先は、見上げるほど天井の高い、ごつごつとした空洞だった。岩壁にかかった松明で、かろうじて全体を見渡せる。壁に埋まった鎖と枷。番人として伏していた黒豹が二頭。アンクーの登場でそれらは立ち上がり、ボクに向けて唸った。
「大人しくしてろ」
奴の一声でそれらは黙った。ただ、ボクに対して獲物を狩るような目で見ている。
「おまえが無茶をしなければ、奴らも手出しはしねえ。もっとも、やられるのはおまえじゃなく、お友達の方になるがな」
アンクーは枷が繋がった岩壁と対面の壁に、意味深な視線を送った。胸が無性にざわめき、それを目で追った。薄暗くて気づかなかったけれど、突き出た岩壁の向こうから誰かの足先が見えた。
「柳瀬……?」ボクは無意識に呟いていた。
「柳瀬!」歩き出そうとしたボクを奴は素早く止めた。
「おっと、動くんじゃねえ。貴様はゆっくり壁際へ行け。そして、枷を足首に嵌めろ」
「柳瀬の無事を確かめてからだ!」
黒豹がゆっくりと威嚇の歩みを始めた。ボクは壁際に寄り、慎重に歩きながら対面の人影に視線をやった。心臓が激しく打つ。平静を保つのが難しい。何故ならボクが目にしたのは、紛れもなく柳瀬本人の姿だったからだ。
「柳瀬に何をした……」
あいつはぐったりと壁に凭れ、両足を投げ出していた。制服もボロボロに破れ、抵抗した跡がある。こけた頬が痛々しく、虚ろな目で空を見つめていた。
「別に。ちょっと撫でてやっただけだ。さあ、涙の再会は後だ。早く枷を嵌めろ」
ボクの手は震えていた。がちがちと歯の根が合わない。ただ、あいつを助けたい一心で枷を嵌めた。
「それを外そうとしても無駄だ。オレの術がかかっている。余計な動きをしようものならお友達の命はないと思え」
悠々とボクを見下ろすアンクーを睨みつけた。
「本当に無事なんだろうな……」
すると、奴は不敵に口端を上げ、どうぞと言わんばかりに片手を送った。
「柳瀬!」ボクはすぐに叫んだ。
「ボクだ!翔平だ!こっちを見ろ、柳瀬!」
柳瀬の肩がようやくぴくりと動いた。あいつがボクを見るまで呼びかける。次第に指先が動き、朦朧とした視線がボクに向けられた。
「翔平……?」
あいつは信じられないといった風に呟いた。
「そうだ、翔平だよ!ボクが分かる?」
視線が合致した。途端に光を失った瞳にみるみる生気が宿り、見覚えのある柳瀬へと戻っていった。
「翔平!本当に翔平なんだな!」
柳瀬は身を乗り出した。枷から延びる鎖があいつを留めるまで。
「柳瀬、怪我は?無事なのか?」
「これぐらい大したことじゃない。おまえに会えて良かった!」
アンクーは大仰に拍手をした。
「満足か、当主様?お友達に会えてなによりだ。今のうちに涙の再会を楽しんでおくんだな。今のうちにな」
奴は一瞥を向け、踵を返して出て行った。
「何なんだ、あいつは!」柳瀬はアンクーの背中に吐き捨てた。
「俺にはよくわからないけど、翔平、おまえとんでもない事に巻き込まれてるんだろ?でも、負けんじゃないぞ。俺も負けねえ」
力強い言葉だった。今までボクを励まし続けてくれたように、ここに来てもあいつは気丈に振る舞っていた。そのことに抑えきれない感情が湧きあがり、懐かしさと安堵で声が震えた。
「ボクのこと、覚えてくれてたんだね……」
家族もボクを忘れていた。それなのに何故……。
「当たり前だ。約束しただろ?『また明日』って。おまえとの約束は絶対破らねえ」
はっとした。たったあれだけの『約束』が原因だとしたら。あいつの中の強い思いに呼応するように、ボクが呼びかけていたとしたら……。
「クラスのみんなも、おまえの家族も翔平を忘れちまってるし、頭がおかしくなったかと思った。でも、俺は自分を信じた。翔平は存在している。必ずどこかに。だから、必死で街中を探し回った。そんな時に奴が甘い言葉を掛けてきたんだ。おまえを知ってるってな」
「巻き込んでごめん……」
ボクを信じてくれたこと。探してくれたこと。感謝と同時にこんな危険な世界に呼び込んでしまった自分に腹立たしさをおぼえた。
「何言ってんだ、水臭えぞ」柳瀬は笑った。
「俺こそおまえをピンチにしちまった。そんな自分に腹が立つぜ。でも、本当におまえに会えて嬉しい」
考えることはいつも一緒だ。あいつと話していると、以前に戻ったような、心の底から力が湧いてくるような気がする。
「うん、ボクも嬉しい……」
顔を見合わせて微笑んだ。
「あの蛇の目をした男。あいつはやべえ。今度翔平に近づいたら只じゃおか……」
いきなり柳瀬が肩を押さえながら顔を歪ませた。
「どうした、柳瀬!」
ボクは鎖が届く限り前へと駆け寄った。だけど、あいつに触れることすらできなかった。
「いや、ちょっと暴れすぎちまって……」
そう言うと、前のめりになった。
「何をされたんだ、見せろよ!」
柳瀬は不承不承、背中を見せた。あいつが隠していたもの。薄闇で気づかなかったけれど、肩から背中にかけて、獣の爪痕が深く残っていた。
「大丈夫か……あいつらにやられたんだな……」
ボクは視線を外さない黒豹どもを睨みつけた。
「大したことじゃない……」
「そんなわけない!」足首の枷を掴んで引っ張った。当然、びくともしない。
「くそ……イス!」術を使った。証からふつふつと光が滲む。
「イス!イス!」
枷に向けて何度も術を唱えたが、それでも、アンクーのそれは壊れる気配がなかった。
「すげえ……」柳瀬は肩を押さえながら苦笑交じりに言った。
「何を見ても驚かなくなってきたぜ……」
あいつに見守られる中で、ボクは悔しさだけが募っていった。自分の未熟さ、こんな時に柳瀬を助けられない不甲斐なさに術を唱える声も震える。結局アンクーの力に及びもつかず、気持ちだけで誰も救えない。
「どうして駄目なんだよ!」
とうとうボクは膝を叩いて俯いた。悔しさで涙が込み上げる。柳瀬に涙を見られたくない。こんな情けない姿を見せたくない。堰き止められていたものが決壊したかのように、止めどなく溢れ出す涙を両膝の間で隠した。
「なんだおまえ、泣いてんの?」柳瀬は心配そうに言った。
「今までそんなに酷い目にあってきたのか……そうなんだな?」
ボクは首を振った。冷静になれば何か方法が見つかるはず。しっかりしなければ。心が折れている場合じゃない。ボクの為にバージ、エドモス、柳瀬まで。あまりにも犠牲が多すぎる。こんな時、彼女ならどうしただろう。ファリニスなら。教えてくれ。ボクはどうすればいいんだ。いいや、考えろ、翔平。自分にできることはなんだ。
──おまえは真の名を呼ぶ者。自分の力を信じろ。
バージの残した言葉が蘇った。真の名を呼ぶ者ができること……真の名で支配すること……そうだ、奴の真の名が分かれば、ボクに奴以上の力があれば、いつの日か奴を支配できるかもしれない。それなら、ボクは?ボクにも真の名があるはず。駄目だ。見当もつかない。ボクの真の名なんて知らない……もし先に奴に知られたとしたらそこで終わりだ。それまでに何とかしなければ。
柳瀬は何も言わなかった。ボクの涙が枯れ果てるまで、冷静になるまで、そっと泣かせてくれた。
「ごめん……」ボクはようやく顔を上げた。まずはアンクーの真の名を知ること。希望を捨てないこと。それが今のボクにできる全てだ。
すると、柳瀬は微笑みながら力強く言った。
「大丈夫。俺たちは最強のコンビだ。そうだろ?またあいつらがおまえにちょっかい出したら殴り飛ばしてやる」
笑ってはいるが、目の下の隈が一層濃くなった気がする。
「そんな傷で説得力ねえ」
ボクは自分を奮い立たせて笑った。
それからは、ここで起きたことやアザのことを話した。それを興味深そうに聞いていた柳瀬だったが、次第に口数が少なくなっていく。傷が痛むのだろう。呼吸が荒くなっていった。
枷に術をかけることも諦めなかった。ほんの僅かだが傷がついた気がする。このまま続ければもしかしたら外せるかもしれない。そんな希望を抱きながら黙々と放つ。奴の登場を警戒していたが、幸いにも姿を現さなかった。恐らく一晩だ。何かがおかしい。胸騒ぎがする。ボクを泳がせているのだろうか。それとも、枷を壊せる訳がないという自信?黒豹も伏しているだけで手出しをしない。いったい、どういうつもりなんだ……。何もかもが不気味だった。嵐の前の静けさ。そんな気がしてならない。
すると、奴が足音をさせて現れた。ボク達は顔を見合わせ、来る時が来たという風に互いの目の奥を見つめた。
「待たせたな、当主様。いや、元当主」
アンクーの背後には異形のモノ達が控えていた。奴の顔には余裕の笑み。しかし、纏う空気が昨日と違う。何か巨大な物を手にしたような、尊大な雰囲気に満ち溢れていた。
「元、当主……」
ボクは慎重に言葉を発した。奴は何を考えているんだ。この一晩の間に何があった……。
奴はボクの方にゆっくりと歩み寄りながら悠々と語り始めた。
「それなりに骨のある連中だった。あの爺さんもな。以前とは格段にレベルが違う。拍手をしてやるぜ」そう言うと、大きく三つ手を鳴らした。「だがな」口端が頬まで切れ上がった。
「エドモスとバージノイドのいない貴様らはオレの敵じゃねえ」
それが愉快であると言わんばかりに、奴は笑い始めた。
「どういう意味だ!」
ボクは立ち上がり、鎖が張るまで進んだ。
「屋敷は墜ちた」奴は平然と言った。ボクを真っ向から見つめて。
「屋敷はオレの物になったぜ、元当主様」
「意味が分からない……」頭が混乱した。屋敷が墜ちた……?ブロジュは……ラカンカは、ニコレッタは……!?
「彼らに何をした……」
声が震える。今こそ奇襲をかけた。全部が、奴の計算通り……心拍数が上がり、身体ががくがくと揺れ、立っているのがやっとだった。
「貴様の同志の忠誠だけは認めてやる。だが、逆らう奴は容赦なく始末した」
全身で叫んでいた。奴ならやる。木の葉を蹴散らすように。これが本当なら、死んでも許さない……。
奴は高らかに笑った。ボクの咆哮の中で。もはや、勝利の雄叫びにしか聞こえなかった。
そして、奴は両手を広げてこう言った。
「世界はオレの物。オレが新しい、当主だ」
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