六 囚われの森

 ボク達は同志に見守られながら日の出と共に出発した。砂地に忽然と現れた樹海。丈高い木が鬱蒼と生い茂るそこは、見ているだけでも眩暈がしそうだった。
 バージが先頭を行き、エドモスが後ろにつく。剣で草を薙ぎ払い、道を作りながらの行進だ。光をまるで通さない森。エドモスの輝きがなければ一寸先は闇。湿度も高く、腐敗した草木のにおいが鼻を突く。
 辺りは異様な空気に包まれていた。恐らくボクらの行動を監視しているのだろう。妖霊達の気配がする。エドモスのお陰で手出しはしないが、手薬煉を引いて待っているのが分かる。両手に汗が滲んだ。行けども視界は同じ。本当に岩山に近づいているのだろうか。そんな疑問が湧く。
 肺が苦しい。ここは迷路だ。余計な感情が渦巻くが、バージの背中を凝視することで、なんとか平静を保つことができた。
 しかし、それも長くは続かなかった。妖霊達のざわめきが微かに聞こえる。ボクの精神に攻撃を仕かけようとしている。耳を貸すな。前だけを見ろ。そう思えば思うほど、奴らの思う壺に嵌って行った。

声が聞こえる。あれは、誰かの唸り声。
──いやだよう。痛いよう。
 漆黒の森に横たわっている少年が見えた。
──どうして……オレが……。
 ぼろ雑巾のように荒れ果てた姿。目を覆いたくなるような少年の四肢は、不自然な方向に折れ曲がっていた。
──死にたくないよう。誰か、助けて……。
 手首が砕かれていた。そこに刻まれた見覚えのある文様。あれは、アンクーの証……。
──死にたくない……。
 この森でたった一人、死を待つ少年。あれが、奴だというのか。
──死ぬな。
 少年は朦朧としながらぶつぶつと呟き始めた。
──無理だよ……。
──無理じゃない。復讐をしろ。
──復讐……?
──そうだ、復讐だ。あいつらを全滅させる。そのために生きろ。
──生きる……。
──生きて復讐しろ。
──わかった……生きる。生きて、あいつらに復讐してやる……。

 光が射した。ボクを取り囲むように、バージとエドモスが立っていた。
「大丈夫か。しっかりしろ。奴らに囚われるな」
 顔を上げた。バージがボクを覗き込んでいる。一体、何を見たんだ。アンクーの身に何が……これが幻惑だとしたら、自分を見失わないようにしなければ。
ボク達は再び、歩き出した。
「あれを見ろ」
 どれくらい経っただろう。バージがいきなり立ち止まった。木々の隙間から微かな小川が見える。そこには、ごつごつとした大小様々な岩が並んでいたが、森のオアシスとも言うべき涼やかな空気が流れていた。
「今日はここまでだ。夜も近い。休憩しよう」
 ボク達はそこで火を起こした。エドモスは無言で、ひと際巨大な岩の天辺に立っていた。夕日に照らされたその姿は、儚くも美しい。そんな最高位の妖霊が、人間に支配され続けていることを、エドモス自身はどう捉えているのだろうか……。
 ボクの視線に気づいたエドモスは金目を向けた。そして、森の向こうへ促すように顎を上げた。
 ボクも岩に上った。天辺からは靄の隙間から覗く岩山の、鋭利な頂上を臨むことができた。
「バージ、岩山が見える!」
 指さして見下ろすと、野営の準備をしていたバージが手を止めた。承知しているというように頷き、また作業の続きを始めた。
夕日に照らされたそれは墓場のように不気味で、黒曜石の塊といった風だった。足場はなく、外部からの侵入は難しい。あそこに柳瀬がいる。そう思うと、このまま森を突き進んで行きたい衝動にかられた。
「柳瀬一馬……」
 ボクがそばにいる事を伝えたかった。明日には真実が分かる。勇む身体に震えが走った。必ず助けるから。ボクはもう一度、『柳瀬』に向けて視線を送った。
 ボクたちは火を囲んで食事をした。ニコレッタのサンドを口にすると、張りつめていたものが溶けていく気がする。熱いものが込み上げ、遠い昔のような家族との団欒を思い出した。寂しさとやるせなさ。ボクは考えられないほど遠くに来てしまったのだと、今更のように痛感した。
「柳瀬だけなんだ。素のボクでいられたのは……」
 バージは無言でボクを見た。灰色の目は今夜も語らない。でも、今はそれが心地よかった。
 食事を終えてからというもの、大剣を磨いているバージの手元が気になって仕方がなかった。刃と柄に刻まれた文様はある種の呪文だ。まるで、強力な力を宿しているような、吸い込まれそうな感覚がする。
「呪文が刻まれた剣なんて初めて見た。何か特別なもの?」
 そう問うと、バージは手を止めて言った。
「ブロジュが錬金して鍛えた『魔剣』だ。妖霊を切り裂き、消滅させる事ができる。万が一、おまえに何かがあった時にはこれを使う」
 不思議とそれに目が離せないまま、吸い込まれるように触れた。すると、彼は厳しい目で制した。
「触るな。おまえには強すぎる」
 そう言って鞘に収め、ボクの手の届かない所に置いた。指先に電流が流れたような気がした。手の平全体に広がる痺れに困惑しながら、これが、魔剣という物の力なのだと知る。
「妖霊を切り裂くってどういうこと?消滅って……」
 不穏だった。エドモスを前に訊いていいかどうかも迷った。そんなボクに気づいたが、バージは意に介さずに言った。
「妖霊に死というものは存在しない。だが、この剣は永久に葬り去ることができる。ただし、そうなった瞬間、人間は代償を払わなければならない。例えそうだとしても、おまえの命と引き換えならやむを得ない」
 鼓動が跳ね上がった。妖霊に払う代償……ボクの命が優先。重い。ボクの行動一つ一つが重すぎる……。
エドモスが何を考えているか、岩の天辺に視線をやった。妖霊は何も言わなかった。ただ、魔剣を静かな金目で見つめ、微かに一瞥を送った。ぞっとした。もし、妖霊と人間が争うことになった時、エドモスはどちらにつく……?ボクにはそれを問うことができなかった。
 火の爆ぜる音だけが聞こえる夜だった。あらゆる思いが錯綜する中、微睡みと共に朝が来た。
ボク達は岩山に向けて再び歩を進めた。妖霊の気配がないことに違和感をおぼえながらも、早く森を抜けることができた事に胸を撫で下ろした。
目前に黒曜石の鋭利な塊が聳え立った。ぽっかりと口を開けた空洞がただ一つ。そこが恐らく内部への入り口だ。しかし、岩山の周囲は堀のような奥深い崖で、岩山に通じる唯一の道も、人一人が通れるほどの狭い岩道だった。両端は同じく断崖絶壁。足を踏み外した途端、底へと転がり落ちるだろう。
 霞みの中の岩山には妖霊達が浮遊していた。果てしなく続く岩道を通り抜けるのも奇跡。奴らが手出しをした瞬間、ボクらは反撃するしか方法はない。
「覚悟はあるか」
 バージはボクに訊いた。拳が震える。でも、怯んでいる場合ではない。そう自分に言い聞かせて頷いた。
 全員で岩道に足を踏み入れた。妖霊達が戦々恐々としているのが分かる。妖霊を前にし、どう手出しすべきか思案しているようだった。
 身体が強張る。吹き曝しの岩道に一歩足を進めるたび、逃げ道がなくなるのだと気づいた。前後左右。ボク達は無防備なまま、アンクーの褥へと向かっていく。
「気をつけろ」
岩道の半分に差しかかろうとした時、バージが声を潜めた。無数の羽音が聞こえる。岩山の天辺に次々と集合する妖霊の群れ。墨のように広がる奴らが、頂上を中心に旋回しているのが見えた。
これは罠なのだと感じた。戻るか。そうでなければ、岩道のど真ん中で崖下に転がり落ちるのを待つしかない。
すると突然、黒の妖霊達は旋回をやめ、一気にボク達へ向けて下降を始めた。
「伏せろ!」
 ボクの上に覆い被さるバージ。しかし、身を硬直したものの衝撃はなかった。羽音だけが耳元で鳴り、バージの身体の隙間から見えたのは、岩壁の底へと落ちていく妖霊達の灰になった姿だった。
 熱波が届く。ボク達はそれに導かれ、顔を上げた。
 そこには、炎の化身となったエドモスがいた。見上げるほど丈高く、全身から溶岩の塊が噴出している。たてがみが猛り狂う炎の触手となり、迫りくる妖霊をいとも簡単に灰にしていった。
──わたしに攻撃するとは身の程知らず。
 これがエドモスの真の姿だ。最高位であり続ける妖霊の畏怖。敵わない。何者もエドモスの力を超えることはできない。それを、まざまざと見せつけられ、息を飲んだ。
「立てるか」
 皮膚がちりちりと焼ける中、バージがボクを助け起こした。エドモスが盾になってくれている。その間に、ボク達は岩道を渡りきるつもりでいた。
 すると、黒の妖霊達がいきなり攻撃をやめ、岩山の前でうねるように集合していった。エドモスの攻撃を回避しながら、みるみるうちに巨大な漆黒の塊へと変化していく。
 それは、妖霊すら覆い尽くすであろう大きさまで膨れ上がり、人間の形を成した。
 アンクーだった。妖霊で形作られたそれはエドモスと対峙し、笑い声を上げた。
──貴様の力はその程度か、エドモス。
岩山の入り口は異形のモノが塞ぎ、不敵な笑みを浮かべてボク達を見ていた。その一方で形を崩しながら、そして、また形成しながら、エドモスに近寄るアンクーの化身。
 それは腕を伸ばし、エドモスの首根っこを掴んだ。しかし、灰にならなかった。エドモスの触手が奴の身体に巻き付こうと、灰が僅かにこぼれ落ちるだけで笑いは止まない。
──邪魔なエドモス。まずは貴様を潰してからだ。
 奴は妖霊の上に覆い被さった。
「エドモス!」
 ボクは叫んだ。それを嘲笑うかのように、妖霊達の鬨の声が響く。鼓膜を劈くほどの激しさに耳を塞ぎ、その目の前では悪夢のような光景が展開した。
──美しいぜ。さすがは最高位。他の奴らとは訳が違う……。
 奴の身体を引き離そうと、エドモスは怒りの炎を上げた。熱風が吹き荒ぶ。ボク達は飛ばされないように、体勢を低くした。
 その時だった。アンクーは右手を振り上げ、勢いよく振り下ろした。エドモスの声にならない呻きが漏れる。
 一瞬、何が起きたのか分からなかった。奴が腕を引いて初めて、エドモスの胸から腹を潰すほどの風穴が見えた。その空洞からとろとろと溶岩がこぼれ落ち、更に無数の妖霊がそこからエドモスの体内へと侵食していた。
──人間に……操られた……愚か者達……。
 エドモスは歯を食いしばり、前のめりになった。鎮火していく炎の中で、身を崩す。それと同時に光を放ち、エドモスはボク達の前で蒸発した。
「エドモス!」
 信じられなかった。信じたくない。エドモスがやられるなんて。こんな事が起こりうるはずがない!
 ボクは吠えた。アンクーの笑い声が木霊する中で。
──無傷とは言わない。当主様を生け捕りにしろ。
 アンクーを形作った妖霊は個々に散らばり、旋回してボク達に向かってきた。
「私が援護する。その隙に岩山へ行け!」
 バージは大剣を構え、背中にボクをやった。希望を捨てるな。そんな叫びが聞こえるようだった。
「バージを置いていけない!奴らは容赦しない!」
 そう選択する間もなく、妖霊達はボクに向けて鎌風を放った。バージの魔剣が唸る。大剣を軽やかに操り、四方から迫り来る奴らを次々と消滅させていった。
再び、妖霊達の鬨の声が上がった。宣戦布告。これで容赦なく人間を切り裂ける。例え、ボクといえども。この時を待っていたかのように、奴らは見境なく攻撃を始めた。
「私を置いていけ!ここへ来た目的を忘れるな!」
 バージが舞うたびに岩道が脆くも崩れていく。バランスを保ちながらボクを守り抜くなどバージの腕でさえ困難だった。鎌風が頬を掠める。バージの全身にも傷が刻まれ、このままでは共倒れになるのは目に見えていた。
「イスル!」
 ボクは証を掲げ、術を放った。しかし、妖霊には通用しない。ボク達は背中合わせになり、奴らを牽制した。
「いいか、翔平。よく聞け」バージは息を切らしながら言った。
「奴はおまえを殺しはしない。それを利用しろ。私はおまえの護衛士だ。余計な感情は捨てろ」
 ボクは息が詰まった。彼が距離を取っていたのは全てボクの為……大事な決断に情が邪魔しないようにする為だったのかもしれない。
「おまえは真の名を呼ぶ者。自分の力を信じろ」
 彼はそう言い残し、妖霊の群れが襲いかかったと同時にボクを岩山の方へと突き飛ばした。
「バージ!」
 体当たりした妖霊の群れと共に、バージは吹き飛んだ。そしてそのまま、崖下へと転落して行った。
 ボクは地を掻くように起き上がり、岩壁の際へと走り込んだ。
「バージ!」
 小石がぱらぱらと崩れ落ちる。しかし、崖下を覗き込んでも煙が上がっているだけで、バージの姿はなかった。ボクは何度も叫んだ。蹲り、力尽きるまで。
「嘘だろ……バージ……」
 エドモスもバージも失い、何もなくなったボクは無防備に岩道の上で丸くなっていた。本来の目的。柳瀬を取り戻すこと。それは分かっていても、混乱した現実の中で顔を上げることが出来なかった。
 足音がした。砂利を踏みしめる音。それは岩山の方から近づき、ボクの前で止まった。
「さようなら、バージノイド。健闘も虚しく……だな」
 アンクーの嘲笑が聞こえた。
「情けねえ当主だ。お友達を取り戻すんじゃねえのか」
 奴は身を屈め、蹲ったボクの頭頂を鷲掴んだ。力任せに上を向かせ、覗き込んできたその顔に唾を吐きかけてやった。
 平手打ちが飛んだ。思いきり横倒しになったボクに奴は言った。
「お転婆がすぎるぜ、お嬢様。その元気もいつまで続くか楽しみだ。待ってろ。すぐにお友達のところへ連れて行ってやる」

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なかはら真斗
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