女神の仮面/1.術師の館
空がくすんだ赤みに転じる夕暮れ。
石畳を小走りに進み、すでに閑散とした噴水広場を抜けた。
その先に広がる澱んだ空気。
まだらに蠢く靄が、僕の館を呑み込もうとしていた。
「兄貴!」
玄関から顔を突き出したのは、弟のラカンカだった。
「遅くなった…」
吐息混じりに答え、扉の隙間に身体を滑り入れた。
エントランスに足を踏み入れるなり、続けざまに鍵をかけた。
小窓を鉄扉で塞ぎ、次は窓に取りつく。
夜が来る…。
<闇>が迫る時。それは、誰もが恐怖に震える時間。
そして、明日が無事にやって来る事を願う。
弟をろくに見ないまま、鉄扉で厳重に塞いだ窓を確認した。
「おめでとう、兄貴」
ラカンカはそんな僕の後ろで呑気に弾んでいた。
「ああ…」
苦笑しながらホールを一周する。
「兄貴の噂でもちきりだよ。特に、ほら、兄貴のお客さんが」
蝋燭に火を灯すと、弟は笑い混じりに語った。
一筋の明かりも漏らしてはならない。
一か所、二か所、三か所。
僕の頭の中は、安全の確認、その事でいっぱいだった。
「勲章、貰ったんだろ?見せてよ」
ラカンカは好奇に瞳を輝かせていた。
「屋根裏の窓も閉めたのか?」
僕は多少苛ついていたのかもしれない。
弟の言葉を遮り、最終点検に神経を張った。
「大丈夫だよ。ミオとちゃんと確認したから安心してよ」
ラカンカは白い歯を剥いて笑った。
「そうか…」
無駄に上がった心拍数。自らの手を胸に当て、それを抑えた。
自分でも分かっていた。夕暮れ時になると決まって神経質になる…。
「おかえり、兄さん」
食堂から妹のミオがやって来た。
袖をたくし上げ、両手を前に突き出しながら歩く。
彼女は嬰児の時に視力を失った。だけど、その事を憂いてなどいない。
<心眼のミオ>。心で物事の本質を見る術師。
僕の大切なパートナーだ。
ミオにそっと近寄り、その手を握ってやった。
水に触れていたのか、ひやりと凍える。
すると、彼女は安堵の笑顔を浮かべ、僕の腰に両手を回した。
「さっきまで兄さんの客でいっぱいだったの」
その口調はどこか刺々しい。
「いったい、何しに来たんだろ」
ミオは素直だ。いつだって構わず本音を吐く。
他人は我が儘なお姫さま気質に業を煮やしたが、僕にはそれが可愛くてたまらなかった。
「きっと、兄さんの勲章が目当てなのよ」
腹に頬を押し付け、僕の服を強く掴んだ。
「食事にしよう」
その頭を撫でながら、笑いを噛み殺して言った。
漆黒の艶やかな髪が心地良い。
「客の前でもこんな調子だったんだ。焦るよ」
燭台を持ったラカンカは肩を竦めた。
「ねぇ、兄さんは負けないわよね!」
ミオは纏わりついて離れなかった。今日はやけに絡む。
「ミラーさんとこの娘も来てた。あの子の誘惑になんか、負けちゃ嫌だからね!」
そんな妹を引き摺りながら苦笑で返す。
「負けないよ…」
食堂に着くまで、彼女はしつこいほど食い下がった。
「やだやだ、あの子だけは絶対に嫌!」
たまに粘着質になるミオ。こんな時は決まって寂しさを感じている。
困り果てながらも、いつもの様にしっかりと抱いてやった。
思った通りだ。僕の胸から顔を上げ、はにかむ様に笑った。
食事の準備は三人でするのが常だった。
唯一全員が揃う時間。どんなに仕事が忙しくても、僕はこの時を大切にした。
「すごいなぁ…」
綿敷きの小さな箱を真剣に見つめるラカンカ。
僕の功績を讃えた勲章が、その中で光っている。
「みんな大げさに騒ぎすぎだ」
弟の熱の入れように、呆れかえって言った。
「なに言ってんだよ!癒し手の腕と剣術、両方が認められて初めて貰える称号だ。誰でも手に入れられるものじゃない。聖剣士だよ!」
その証である細身の剣(レイピア)が、草に絡まり交差した形。
ラカンカはそれを食い入るように凝視していた。
「僕には過ぎた称号だよ。こんな…」
何でも英雄視したがる今の風潮に嫌気がさしていた。
それほど人々は、この世界にささやかな希望を必要としていた。
「やっぱり兄貴はすごいよ…」
食事に殆ど手をつけず感慨に耽る。それはどこか、思い詰めた様子だった。
僕はそれを気にしながら、今日の診療録に目を通した。
客の対応に疲れたのか、ミオはソファで転寝(うたたね)を始めた。
それを横目で確認したラカンカは、漸く頭をもたげて言った。
「兄貴…」
その言葉を待っていた。さりげなく視線を上げる。
「兄貴が剣術も学んだのは、俺たちを守る為なんだろ。俺たちの為に、全ての時間を費やしてきた…」
ラカンカの大きくて澄んだ目は、何故か苦悩で歪んでいた。
「兄貴にとって称号は副産物でしかないんだ。だから、嬉しそうじゃない…」
弟の指摘は的を射ていた。
確かに僕は冷静だ。勲章を与えられ、名誉に浸るかと思えば心が揺れない。
だけど、それが何だって言うんだ…。
「俺、決めたよ。兄貴」
下唇を噛む口。緊張で一文字に引き締められる。
ラカンカ…。
「ブロジュ様の元へ、正式に弟子入りしようと思うんだ」
弟の身体の中に火が点いた。
それに対して、僕は意外にも…衝撃を受けてしまった。
「ブロジュ様の元…」
同じ言葉を返し、失った言葉をごまかす。
「うん。ブロジュ様が俺には師匠(マスター)の素質があるって言ってくれたんだ。俺さえその気なら屋敷に入れって」
次第に熱がこもっていく。
「俺も、もう十六だし…いつまでも兄貴に頼りっきりじゃカッコ悪いだろ。俺だって自立して、みんなを守れるような魔術師になりたいんだ」
歳の離れた弟だった。
いつまでも子供だと思っていたのに、気付けば自立を考えるようになっている。
その事が寂しいのだろうか。
いや、そうじゃない。
僕はもっと、別の事で気を揉んでいた…。
「屋敷に入るという事は…<同志>に、なるつもりか…」
激しく動揺していた。
同志。それは、<真(まこと)の名を呼ぶ者>に人生の全てを捧げ、生活を共にする選ばれし者たち。
<真の名を呼ぶ者>が不在の今でも、同志に憧れる者は多い。
ラカンカが、その<同志>に…。
「そうだよ。俺が一員になれるんだ。魔術師にとってこれほど名誉な事はないよ。きっと、父さんと母さんが生きていたら喜んでくれたと思うんだ」
父さんと、母さんが…。
僕は宝石のように輝く弟の目を見ながら、心の底に広がる沼を見つめた。
そうかもしれないな…。
「せっかくのチャンスだ」言葉を絞り出した。
「自分の力を試して来い」
弟の将来の為、ここは喜んで後押しをするべき…。
「やったな、ラカンカ」
だけど、僕の片足は、ずぶずぶと深い底なし沼に嵌っていた。
ラカンカは安堵したのか、更に眩しい笑顔を浮かべた。
「ありがとう、兄貴。明日返事をしてくるよ」
彼は何も知らなかった。
僕の陰に潜む、果てしない闇を…。