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紅い月がのぼる塔/24.太陰の刻

 マヤは目覚めた。額を撫でる今朝の陽光はやけに眩しい。それに反して、胸を覆う黒霧に魂が沈んでいく。後悔ではない。それならなぜ、血が澱んでいくのか。

 隣にレンはいなかった。いつの間に空けたのだろう、それすら気付かなかった自分に狼狽した。

 重く軋んだ半身を起こし、珍しく潮風が通り抜ける窓を見つめた。

 レンはそこに立っていた。薄いガウンを羽織り、わずかに開けた窓の隙間から外を見ている。それは、背中から伝わるほど、熱心に何かを気にしている様子だった。

「何をしているの……」

 その問いかけに、男はさり気なく窓を閉めると振り返った。ほんの一瞬だったが、険しく細めた瞳が、皮肉な笑いに変わるのを見た。

「遅いぞ」男は言った。

「もう、陽は下り始めている」

 マヤは不可解に思った。彼は何も変わってはいない。相変らず冷めた視線を向け、口元に不敵な笑みを浮かべている。まるで、昨夜のことが夢であるかのように、彼の中には何も残ってはいなかった。

「最後にもう一度訊くが」顔を覗き込んで言った。

「このまま沼地に帰る気はないか」

 慎重にならなければ、と思った。答えを知っていながら、こうして他人を試す。なぜ今になって、その癖が戻って来たのか。

「いいえ、帰らないわ。何があっても」

 レンは目を細めた。直視するマヤを見つめ、苦笑する。

「その言葉、モリに聞かせてやりたい」

 妙に含みのある言葉だった。彼女は胸に寄せたシーツを握りしめ、伸しかかる不穏に眉を顰めた。

 夕刻を過ぎてもリュートの音は止まなかった。レンの心はクロエの元にある。昨夜のことを口にしない男に、複雑な思いが湧き上がった。

 広間のランタンに明かりを灯す頃、レンは漸くバルコニーを開け放った。

 空には薄い雲の層が広がり、燃えさかる陽と闇色の影が、斑な濃淡を作っている。荒れ狂う波音。巻き上がる潮の香り。それらは次第に色を無くし、雲間を破る完璧な太陰に沈黙した。

 紅い月が現れた。マヤはバルコニーの露台に立ち、無言でそれを見つめた。

 彼方から馬の嘶きが届いた。レンの爪先が俊敏に動き、鉄柵から身を乗り出す。だが、闇夜を凝視したまま、暫くの間、微動だにしなかった。

「来い」

 程なくして振り返った。マヤを視線で促し、広間を後にする。

 彼らはランタンを手に、黙々と薄暗い螺旋階段を下った。すると、聞き慣れない鈍い雑音が届いた。それは空に波紋を描く、重厚な鐘の音さながらだった。マヤは四方に反響するそれに、耳を澄ました。

「何の音……」

 フロアに降り立ち、辺りを見回した。

「構うな。子犬が騒いでいるだけだ」

 レンは鼻から息を吐き、薔薇のアーチを潜り抜けた。

 子犬……?すぐにそれと分かった。

「モリ……」

 マヤは身体を一周させた。だが、アーチの先に居た小男を見た途端、驚愕に足を止めた。

 つばのある帽子の下からガラス玉の目が覗く。それは奇妙にマヤを見つめ、そしてレンへ視線を流した。

 マントの裾には、真新しい籐籠が置かれていた。彼があの御者なのだと、訝しく眇めた。

──マヤ──

 彼方からそれは聞こえた。未だに反響する音に併存した不確かな響き。昨夜と同じ色を醸しながら、心の内を打つ。

 しかし、幻などではないと知った。彼女の鼓膜を明確に震わす、せつない声。

「マヤ!」

 モリが咆哮していた。紅い月の映える闇夜に向けて、己の存在を伝えようとしていた。

 マヤは気付いた。昨夜の声も幻ではなかったのだと。彼女を一心に求め、叫び続けていたのだ。

「モリ!」

 声の通る空間へ叫んだ。モリはどこにいるのか。近くにいるのは間違いない。

「早くしろ」

 レンは御者の歩調に合わせて歩き始めた。消えない呼び声に息詰まるも、やむを得ずその後を追った。

「クロエはどこなの」

 低木と雑草の覆う荒地をひたすら歩いた。外壁に沿ったここは見覚えのある場所。

「地下に居る」

 薔薇の褥《しとね》へ向かっていた。覚悟はしていても、せり上がる鼓動と震えは止められない。彼女は朦朧とする戦慄きに、ランタンの火を見つめた。

 草木で盛った石囲いの前に、黒光りの馬車が止まっていた。初めて見る黒塗りのキャリッジ。これを所有するクロエは何者なのか。 マヤはその豪華さに目を丸くし、胸騒ぎを消す為の観察を始めた。

 小男はそのまま御者台に座った。そして、たちどころに彫像と化した。

 彼らは地下に続く石段を下り、松明の灯った通路を進んだ。突き当たりの木扉も、厚い鉄門に感じる。ここはまるで、妖魔の隠れ家に通じる茨の道だ。

 扉を開けた。途端に押し寄せる薔薇の香り。生温かい空気の中で、濃厚な抱擁を交わされた錯覚に眩暈がする。

 闇に点在する薄明かり。紅い布壁が行く手を塞ぎ、迷宮へと導く。

 レンの背中が振り子に見えた。花弁が散りばめられていたことにも気付かず、吐き気をもよおした。

 レンは最後の布壁の前で立ち止まった。俯いた顎を上げ、漏れる明かりを凝視して言った。

「クロエ、おれだ」

 マヤは大きく息を吸った。この先にクロエが居る。鳴る奥歯を噛み、両手で服を掴んだ。

「おいで」低く掠れた声音だった。

 これが、クロエの声。なんて艶やかで深みのある音なのだろう。彼女はそれを意外に思い、レンの後に続いた。

 薔薇の褥だった。紅い布壁に囲まれた巣の中に、薔薇細工のある寝具。紅い天蓋が床まで垂れ、見事に敷かれた花弁が床の色を消していた。

 しかし、マヤが狼狽したのは、そこに張り巡らされた <蜘蛛の糸> だ。それは、天井から細い麻縄で編んだ、忌まわしき芸術……。

 クロエは居た。悠然と寝具に腰かけ、プラチナの髪を梳かす。薄い生地で出来た闇色のドレスを纏い、艶のある細身の紅い靴が、淫猥な呪物となっていた。

「ここにおいで、レン」

 女は銀縁の鏡に映る己を見つめた。

 マヤは布壁を背に立ち尽くし、美しくも退廃的な空間に絶句した。

 一方、レンは命じられるまま歩き出した。そして、女の前で一度立ち止まると、床に躊躇いもなく両膝をつき、両手をついた。

 マヤは顔を歪めた。まさか、あのレンが、自ら女の前に伏すとは。

 その姿はまるで、主の前に身を差し出す、忠実な犬のようだった。

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