十八 決戦前夜
もう、誰もボクに構わないでくれ。これ以上、闇から引きずり出さないでくれ。たくさんだ。このまま、眠らせて……お願いだから……夢の中にいたい。バージの夢だけを見続けていたい。邪魔しないでくれ。お願いだから。
苦しい……。
せめて、夢の中だけでも、安らかな時が欲しい。
父さん、母さん、容子。みんなの笑顔が蘇る。
会いたい。ボクはここだよ。忘れない。みんながボクを忘れても、死ぬまで忘れない……。
「翔平……」
ボクを呼ぶ声……。
柳瀬?ボクの大事な友達。おまえだけだった。ボクの友達。ごめん……ごめん、柳瀬……こんなことになって……ごめん……。
「翔平」
息が出来ない……温もりがする……どうして……。
「ごめん……」
ボクは無意識にそう言っていた。枯れ草の香り。バージの香り。彼の胸に大きな穴が開いた……血まみれになって……そうだ、何もかもボクの……。
「ごめん、ごめん……」
溺れそうだった。沼の奥へと沈んでいきそうだった。
「翔平、私だ」
誰……闇の中でボクを抱き締める両腕。枯れ草の香り……枯れ草……。
「大丈夫だ。私が居る」
腕が軽くなった。誰かが沼から引き上げる。ボクの鎖を外し、再び床の上で抱き締めた。
「私が居る……」
枯れ草。バージ。バージノイドなのか。そんなこと……。
掻き抱く力強い両腕。耳元に響く聞き覚えのある声。枯れ草の香り。間違いない、これはバージの温もり。どうして。夢?夢でもいい。例え、これが黄泉でも……。
「バージ……」
ボクはそう発していた。
「そうだ、私を見ろ。おまえを助けに来た」
目を開けた。碌なものが目に映らなかった日々。もう二度と希望を目にする事がないと思っていた。だけど、そこには、バージが居た。闇の中、灰色の瞳がボクを映す。
「夢……?」
彼は微笑んだ。ボクの前髪をかき上げ、傷だらけになった身体を流し見た。
「夢じゃない。おまえが呼んでいる声が聞こえた。まさか、こんな姿に……」
そう言って、ボクの額をそっと撫でた。
「生きてた……」ボクの声は震えた。
「そうだ。癒し手のおかげだ」
彼は言った。
「生きてたんだね……」ボクは何もかも顧みず、彼の胸に飛び込んだ。
「良かった……」
彼の温もりだ。そう思った途端、ボクの中で何かが決壊した。沢山の蓋をしていたモノ。希望、苦しみ、絶望、悲しみ。それら複雑な感情全てが大波の様に押し寄せて来た。
「良かった……」
ボクの目から涙が溢れ出た。
「良かった!バージ……!」
忘れていた涙。希望という感情。ボクは泣いた。そんなボクを彼がどんな目で見ていたのかは分からない。ただ、背中を擦り、気が済むまで泣かせてくれた。
そして、やっと落ち着いた頃、彼はこう言った。ブロジュを含め、みんなが攻め込んで来ると。ボクを取り戻すため、新たな世界へ向けて駆け出す決戦なのだと。
「みんなが助けに来る……」
信じられなかった。ブロジュが動いてくれる。きっとバージが働きかけてくれたのだろう。漸く顔を上げて見つめた彼の目には、炎が宿っていた。
「オプシディオの情報によると、夜明けに民が大規模な暴動を起こす。城壁に集結しておまえを狩り出す気だ。それを止める為には私達はどんな手でも使う」
「民が……?」
呆然とした。ボクを殺せと言っていたのは知っている。だけど、ここまで膨れ上がるとは。
「術が使えないんだ」ボクは言った。
「アンクーの術がかかった枷が嵌って……これを外すには……」
「伏せろ!」
途端にバージが叫んだ。部屋に差し込む目も眩む様な光の玉。それは徐々に近付き、部屋ごと吹き飛ばさんばかりに激突した。
バージがボクの上に覆い被さる。部屋が揺れた。壁一面が破壊され、二人とも爆風で飛ばされた。
「翔平、大丈夫か!」
ボクは頷いた。破壊された壁からは中庭が覗き、くすんだ月夜の中で、妖霊達が浮遊しているのが見えた。
「どこのネズミかと思えば、やはり貴様か!」
中庭から声がした。ボクとバージは二階から中庭を見下ろし、一人仁王立ちで見上げているアンクーを目視した。
奴はほくそ笑んでいた。バージを真っ向から睨みつけ、淡々と発する。
「生きていたのかバージノイド。貴様もしぶとい奴だぜ。いや、執念って奴だな」
奴は声を上げて笑った。それは勝ち誇った笑いにも聞こえた。
「だがな、貴様にそいつはやらねえ。なあ、翔平……」
虫唾が走った。奴が初めてボクの名を呼んだ。それがどんなに屈辱的か。ボクは全身で叫んでいた。
「ボクの名前を呼ぶな!」
しかし、奴は口端を上げただけで、更に続けた。
「随分つれないじゃねえか。オレ達は仲良くやってきただろう?褥を濡らす時も……」
瞬時に血が逆流した。動悸が打ち、顔がのぼせていくのが分かる。
「おまえの顔が忘れられねえぜ……」
バージは跳ねる様にボクを見た。どんな思いで見たか。だけど、ボクは恐ろしいほどの羞恥で彼の目を見ることが出来なかった。
刹那の間でも空気の振動が伝わる。バージにだけは知られたくなかった。他の誰かに知られたとしても、バージにだけは……。
すると、彼は大剣を振り上げ、壁に打ち付けて叫んだ。
「貴様を殺してやる!」
その怒号は初めて聞くものだった。今にも中庭に飛び出さんばかりに身を乗り出す。しかし、複数の妖霊が前に塞がり、彼の行く手を阻んだ。
アンクーは再び笑った。それは狂気の笑いだった。
「バージノイド。まったく貴様は邪魔な奴だぜ!」
「翔平、奥に行け!」
バージはボクを突き飛ばし、襲いかかる妖霊の群れに立ち向かった。魔剣が宙を舞い、奴らを切り裂く。まさに多勢に無勢、奴らは何処からでも鎌風を放った。
「やめろー!」
ボクは叫んだ。すると、再び光の玉が真正面に浮き上がり、火球となって膨れた。
熱い。あれが直撃したら終わりだ。アンクーの術はボク共々骨まで焼き尽くそうとしていた。
バージは後ろに下がり、ボクの上に覆い被さった。
もう終わり。ボクと彼はお互いの目を見つめた。僅かに灰色の目が揺れ、ボクを抱える腕に力が入った。
火球が轟音を上げ飛んできた。目を閉じる。蒸発する自分を想像する。でも、バージとなら悔いはない。
しかし、ボク達はいつまで経っても息をしていた。
おかしい。二人で顔を上げた。
ボク達の真正面には覆い被さる様に立つ見覚えのある姿があった。彼は魔法の盾を放ち、火球を受け止めながらじりじりと後ろに下がった。
「ラカンカ!」
「早く逃げて!長くはもちません!」
彼は言った。その一方で火の粉を抜けて、もう一人ボクに近づく者が居た。
オプシディオだった。彼は足早に駆け寄り、ボクの姿を見て愕然とした。
「翔平殿……こんなに……」
ボクの両手を握り、それを口元に当てる。
「兄貴、急いで!」
ラカンカとバージが前に立ち塞がった。オプシディオはそれに応えると、ボクの背中を押し「こちらへ」と言った。
「ずいぶん、ネズミが多いぜ。この屋敷はどうなってんだ?」
アンクーの飄々とした声が響く。
バージとラカンカが盾になっている間に、ボク達はファリニスの衣裳部屋に駆け込んだ。未だ残された衣装を払いのけ、地面にぽっかりと開いた穴に直進した。
「地下の抜け道です。早くこの中へ!」
オプシディオに押されるまま階段を降りようとした時だった。ドッドッドッ……と、地響きが鳴り始めた。それは、どんどん激しさを増し、ドドッドドッドドッドドッドドッドド……と、底から揺さぶる震動へと変わった。
ドドドドドドドドドドドドドドドドッ……。
「この音は……」
ボクは地響きで揺れる木製の階段に足を掛けながら言った。
「騎馬隊です。あなたを救う為、民の暴動に対抗する為に集結した仲間です。さあ、早く、地下へ!」
予想を上回る数の騎馬隊だ。おまけに緊急事態に陥るまで、ボクにすら教えられていなかった道。恐らくオプシディオの館まで続く避難道は迷路の様に張り巡らされているのだろう。
「翔平様、早く早く!」ラカンカとバージが走りこんできた。
「奴らの気が反れました。今のうちです!」
ボクたちは地下道に滑り降り、扉を閉めた。そこに鍵の呪文をかけるラカンカ。暗闇に松明の火が灯り、ボク達の行く手を照らし出した。
地下道を歩きながらも蹄の音が響く。ぱらぱらと落ちてくる砂粒の中を抜け、ボクは初めて力尽きた。奴が執拗に放った鞭打ちが今になって沁みる。
「翔平殿!」
バージが被せてくれたマントの下を見て、オプシディオは必死になって手当をしてくれた。そして、眉を寄せ「応急処置ですが、少しはもつでしょう」と言った。
だけど、彼が言いたいのはそんな事ではなかった。いきなりボクの両手を掴み「申し訳ありません!」と項垂れた。
ボクには何のことだか分からなかった。すると、彼は言った。
「僕はあなたの事を……いえ、真の名を呼ぶ者の事を憎んでいました」
「兄貴、何を急に!」
ラカンカは身を乗り出した。その傍らでボクは呆然としてしまった。彼はボクの事はおろか、大事な仲間を無数に救ってくれた恩人だからだ。だけど、彼は告解とでもいうように続けた。
「妖霊に両親を殺され、その原因は真の名を呼ぶ者であると思っていた。だけどあなたはこんな姿になるまで信念を貫き通し、たった一人、世界の事を考えていた。そう思った時、羞恥を感じました。あなたを憎んでいた自分が恥ずかしい。どうか、許してください」
返す言葉が見つからなかった。彼こそ両親亡き後、たった一人で大事な家族を守っていた。そして、世界屈指の癒し手にまで上り詰めた。それがどれだけのことか。両親に守られて生きてきたボクには想像もできない。
「許すとか許さないとか、もうやめよう、オプシディオ。ボクは大事な仲間だと思ってる。お礼を言いたいのはボクの方だ。いつもあなたがボク達を助けてくれた。だから、顔を上げて。お願いだから……」
「翔平殿……」
ボク達は顔を見合わせて微笑みあった。その間を裂くように、頬を膨らませたラカンカが「兄貴がそんな事を考えていたなんて知らなかった」と言い、ボクの枷に手をやった。
「私もお役に立ちたいのですが、この枷、アンクーの術がかかっていて外れません。これを外すには奴以上の力を持った術が必要です。つまり、翔平様にしかこれは外せないのです。でも、証が覆われている限り、そんな事は不可能……」
ラカンカは悔しそうに膝を叩いた。
「うん、分かってる。だから、皆に助けて欲しいんだ。書庫にある妖霊の書を取り出す手伝いをして欲しい。今は術が使えない。床石が壊せなくて。ラカンカなら出来るよね」
「お安い御用ですよ!」満面の笑みを称えたラカンカが顔を上げた。
「翔平様のお役に立てるならなんだってします。書庫の近くに出られる抜け道があります。そちらを使いましょう」
「ブロジュ達が城門を抜けてくれればいいが。騎馬隊に魔剣が渡っている。アンクーも以前の様に、という訳にはいくまい」
バージに支えられながらボクは頷いた。とうとう魔剣という禁じ手を全員が使った。勿論、ただで済むとは思っていない。だけど、せめて妖霊の真の名を解放すれば何かが変わるかもしれない。そうだ、やってみるしかない。
ボクは一つの覚悟を決めていた。
「翔平様、ここが出口です。書庫の横に出るはず」
ラカンカが術を放ち、扉を開けた。バージが先頭を切って顔を出す。その途端、煤けたきな臭いにおいが地下通路にも流れ込んできた。
「書庫が……」バージは言った。
「書庫が破壊されている」
全員で顔を見合わせた。
「見せて!」
ボクが顔を出す。草の狭間から臨めるはずの書庫が崩れ去り、無数の書棚の焼け爛れた姿があった。
「床石は書棚の下にある」
地下道から飛び出そうとしたボクをバージが制止、慎重になれと目で訴えた。
「気を引き締めろ。罠かもしれない」
個々に頷いた。
「私とオプシディオで攻撃を防ぐ。ラカンカと翔平は床石を破壊することだけに集中しろ」
「分かりました。任せてください!」
ボク達は素早く地下道から抜け出た。身を低くし、瓦礫の陰に忍び寄る。
すると、待ち伏せをしていたと思われる妖霊が四方から飛び出して来た。
「私達に構わず行け!」
バージが叫んだ。ボクはラカンカを導きながら瓦礫を跨いだ。書棚が燃され、床石が瓦礫で隠れている。それらを破壊することから始めなければならなかった。
「イス!」
ラカンカが破壊の呪文を放つ。その間にも妖霊はバージやオプシディオに向かい、ラカンカの方にまで近寄ってきた。
「翔平、剣を持て!」
バージはボクに向けて短剣をよこした。鞘を抜き、両手でそれを握り締めながら、ラカンカの援護をした。
「翔平様、床石は無事の様です。端から全部砕いて行きます!」
彼の言葉が心強かった。しかし、妖霊は更に荒ぶり、ラカンカ目掛けて集中攻撃をしてきた。
すると、中庭から無数の騎馬の音がした。仲間が城門を抜けたのだろう。その安堵感と共に「翔平様、見つかりました!」というラカンカの歓喜の声も響いた。
やった。ボクは思った。だけど、事態はそう簡単にはいかなかった。
妖霊の書を握り締めたラカンカの腹部には、内臓がはみ出る程の切り傷が走っていた。