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紅い月がのぼる塔/19.解けていく時間

 モリは充満した湯気を頬に感じながら、樽に添えた両手の間に蹲った。

「レンはたった一人で厩に繋がれた。会うことも許してもらえなかった。ふた月の間、彼らに何をされていたのか……そこから逃げ出すまで、ぼくは知らなかった」

 マヤは少年の華奢な身体が震えるのを一心に見つめていた。

「『ぼくがやった』と、最後まで言い出せなかった。きっとぼくなら、あれほどの仕打ちを受けずに済んだはずなのに……」

 かける言葉などなかった。この兄弟に染みつく斑の闇をどうしたら取り除けるのか、マヤの頭中にあらゆる思いが錯綜した。

「ぼくはずるい人間なんだ……いつだって何も知らない子供のままでいようとした。今だってそうだ。何一つ、変わっていない……」

 靄の中に身を溶かすつもりか、モリは四肢を小さく折りたたみ、顔を上げようとはしなかった。

 マヤはその背中にそっと触れた。指先に皮膚を撫でる繊細な振動が伝わる。

「あなたは八年の間、逃げることなくレンの憎しみを受け入れ続けた。食事も満足に取らずに薄弱を装ってきたのは、自ら <罪人> で居る為だったのね。あなたの部屋は……まるで獣の檻だった。そうやって自分を戒めて来た。でも、もう十分に償ったと思うの。鎖を断ち切りたい。そう思ったから私が必要になったんだわ」

「まだだ」モリは顔を上げて己の肌をみつめた。

「兄さんはまだ一人で苦しんでいる。あの傷が治癒しないのはクロエのせいだけじゃない。きっとぼくに対する憎しみを忘れないせいだ。許さないんだよ、きっと。一生、ぼくを許さない気だ!」

 呟きが咆哮に変わり、両拳を樽の縁に叩きつけた。項垂れたうなじに光る深紅の首輪。その隙間から滴る汗。囚われた細首に触れると、マヤは静かに返した。

「そうかもね」

 モリの両肩が一度跳ね、そして緩やかに止まった。

「でも、そうじゃないかもしれない。それは、レンにしか分からないことよ。あなたはできる限りの償いをした。これ以上、できることはないのかも。過ちは誰にだってあるわ。ましてや、あなたは小さな子供だった」

 マヤは少年のうなじに額をつけ、言葉を刷り込むように言った。

「もう、十分なのよ、モリ。十分、やったの……」

「十分……」

 マヤを一瞥した目尻に薄く涙が滲んでいた。彼女はそれを親指の腹で拭い、優しく頷いた。

 寄せた眉間が震えていた。唇を噛んだ少年は、それ以上言葉を吐き出せなかった。

 彼女は不意に肩を掴むと、顔を覗き込んで言った。

「聞いて、モリ」

 それに答えて、惑う碧眼が揺れた。膨らみのある唇も微かに開く。

「八年前に負った傷はとうに治癒しているの。今レンを蝕んでいるのは、彼自身の魂。彼がそれを受け入れさえすれば、明日にでも治癒するわ。あなたがそれを背負う必要はない。傷なら私が治してみせる、絶対に。だから、これからは自分の為に生きて」

 半信半疑に目尻を下げ、マヤの自信に満ちた瞳を見つめた。

「治癒、しているの……本当に……?」おぼつかなく繰り返す。

「そうよ。私を信じて」

 モリは苛み続けた痛みがわずかに消えていくのを不思議に思った。彼女の存在自体が魔法なのだろうか。滞り続けた泥が容易く流れて行く。

 彼女に触れたいと思った。瞬く瞳を見つめ、無防備な亜麻色の髪を懐に抱き寄せたいと感じた。

 沈黙したまま凝視するモリに、マヤは突然湯をかけた。そして、赤褐色に染まった一枚布を、裾から胸に向けてたくし上げた。

 モリは虚を衝かれ、悲鳴を上げて硬直した。下着すら纏わない裸身が露わになり、マヤの目前で震える。

「マ、マヤ!」

 彼女は無言で服を引き剥がした。狼狽するモリに見向きもせず、一糸纏わぬ少年を木樽の中へと導いた。

「綺麗にするの。あなたはとても素敵なんだもの。こんな姿は今夜でお終いよ」

 そう零して、己の胸紐を解き始めた。

 モリの咽喉が奇妙に鳴った。慌てて木樽に足を踏み入れると、湯の中に腰を落として背を向けた。

 衣擦れの音がやけに鼓膜を突く。その上から昂る気持ちを煽るように、心臓の響きが重なった。

 マヤは服を丸めて放り出すと、綿の下着姿のまま、モリの身体を流し始めた。

 骨の形が浮かぶ白い背中。それは、膝を抱えた彫像さながら、微動だにしない。

「大丈夫、怖くないわ」

「いや、そういうことじゃ……」

 彼女は何も気付いていない。今自分がどんなに心を静めているか。

「は、恥ずかしいよ……」

 抵抗するはずの言葉も、力なく消えていく。

「恥ずかしくないわ。嬉しいの。こうして弟の身体を洗うのが夢だったのよ」

 モリの頭上から湯を流し、固まった泥を丁寧にほぐした。弾む指先が髪を撫でる。

 少年は躊躇う一方で、いつしか滑らかな動きを味わっていたいと思った。丁寧な刺激に酔いしれ、気付けば無防備に身を委ねていた。

 マヤは煤けた陶器を磨くように、身体の隅々まで丹念に擦った。手をかければかけるほど、青白い滑らかな艶を取り戻していく。種子油を髪に揉み込みながら、燃える赤毛を物珍しく凝視した。

「ねえ、モリ」

 少年は半ばまどろみながら、夢中に響く心地良い音色にそっと耳を傾けた。

「あの日、何があったの。あんなに濡れて」

 あの日……。モリの額には、忘れかけていたあの時の輪郭が、焼印の如く浮かんだ。

 偽りの淑女。首輪を引かれた痛み。木霊する卑劣な笑いが、それを通して蘇った。

 モリの顔が瞬く間に強ばった。彼女はその変化を素早く捉え、さり気なく言い添えた。

「言いたくなければ別にいいの。ただ……ずっと気になっていたから」

 伏したまつげの隙間から、躊躇する瞳が見えた。モリはそれを背中に感じ、苦笑混じりに返した。

「においが……きつくて」

「におい?」

 彼女は予期せぬ答えに手を止めた。

「麝香」

 モリは端的に答えて振り返った。前髪の狭間に見え隠れするその目は、いつになく生気に満ちている。

「そんな気がしただけなんだ。たいしたことじゃないよ」

 ぼんやり見つめる彼女に、笑みを送って見せた。

 マヤは漸く顔を上げた少年に胸を撫で下ろすと、顔を覆う濡れた前髪を掻き上げて言った。

「こっちを向いて、モリ」

 しかし、少年は彼女の濡れた下着から視線を外して動かなかった。

「髪も、ね。少し切った方がいいと思うの」

 鼓動で胸が張り裂けそうだった。彼女の張り出す乳房に綿布が貼りついている。透けたそこから肌の色が染み、隆起した膨らみを強調していた。

 彼女の手の平が額に触れた。身体の芯から火照らす熱に、彼はとうとう叫び出した。

「待って!待って、待って……」背中を反らせ、髪に触れる手を押し戻した。

「マ、マヤは、ぼくのこと、子供だと思ってるかもしれないけど……ぼく、これでも、十五だから……」

 マヤは豪快に息を呑み、丸めた服を引き寄せた。彼が時折見せる大人びた視線。捉えどころのない危うさの訳が、そこにあった。

「ごめんなさい……もっと、小さいと」

 華奢な身体を改めて見つめ、今までの行動を思い返した。

「いや、ぼくこそ……ごめんなさい」モリは抱えた両膝に顎を乗せた。

「目を、閉じてるから……」

 眠るように沈黙したモリは、青年期に足を掛けたとは思えないほど、中性的な透明感を醸していた。その人間離れした姿態を、マヤは絵画を愛でるように静かに見つめた。

 ほどなくして、絹さながらの艶やかな赤毛に剃刀を入れた。うなじに浮かぶ紅い革が、細首に強く絡みつく。

「これ、外さない?」マヤは小さく呟いた。

 しかし、首を横に振った少年は、意志を持って答えた。

「このままにしておいて。これは、塔から出られた時に外すよ。ここに居る限り、 <飼い犬> だということを忘れない為にも」

 彼女は何も言わなかった。彼の望み通り、束縛の象徴として残しておくことにした。

 モリは瞼の裏にマヤの姿を映し出した。澱みのない微笑み。微かに浮かぶエクボ。長い亜麻色の髪が胸までかかり、鎖骨の窪みを隠す。首を振るたび、えら骨から胸骨までがしなやかに張った。湾曲した胸に柔らかな肉が乗り、呼吸に合わせて上下する。

「マヤ……とっても綺麗だね」

 目を閉じたまま、顔を上げた。彼女の手が前髪を探り、程好い長さに整えている最中だった。

「そんなことを言われたのは初めて」マヤは恥ずかしさに自嘲を混ぜて言った。

「みんな私を避けていたわ。あなたの兄さんだって、私を平凡な女だと……」

「本当だよ、とっても綺麗!」モリは堪らず目を見開いた。

「ぼくは最初からそう思っていた」

 真っ直ぐな青緑色の眼差しだった。覆い隠す壁もなく、マヤだけを見つめた精悍な瞳。

 彼女はモリに初めて異性を感じた。長い睫毛の奥にある純粋な光。見え隠れする陰をも捕らえ、清らかなせせらぎを生む。こんなに真摯で力強い視線を向けられたことは、今までの人生で一度もないと思った。

「モリ……」

 少年はマヤの目を直視したまま、ゆっくりと顔を寄せた。息を詰め、頬を紅く染めて俯く彼女に微笑すると、両手を伸ばした。

 頭を軽く引き寄せた。鼻先で覗き込むように見つめ、ぎこちなく唇を寄せると、額、頬、そして、唇の先にそっと口づけた。

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