紅い月がのぼる塔/10.下弦の始まり
その日は早朝から湿気を含む陰鬱とした風が吹いていた。それが原因なのだろうか。塔を覆う空気も重く、どこか異常な気配をはらんでいる。
レンの姿はなかった。彼の自室を見回したマヤは、気の残留すらない冷えた寝具に触れた。湯気の立ち上るスープの香りだけが、わずかな温もりを虚しく主張する。
「モリ!」
白粒の小瓶だけを握りしめ、足早に部屋を飛び出した。
吹き抜けの螺旋階段に身を乗り出し、上階へ向けて呼びかけた。だがそれは、奇妙な波紋を描いて反響するだけで、他者の気配を感じなかった。
彼らは地下に居る。そう確信したマヤは、流れる足取りでフロアに降り立った。
薔薇のアーチを潜り抜け、塔の外壁を沿い歩いた。しかし、鬱蒼と茂る草木に前途を阻まれてしまった。
クロエの為の入口。彼女を煩わせない場所とは……。
門を起点に考えた。雑草の覆う地面を探り、微かに残った馬車の轍を見つめた。繰り返し潰された草の跡。掘り返され、撒き散らされた土を頼りに、塔の裏手まで歩いた。
そこで立ち止った。轍の跡がぷつりと消えた、低木に囲まれた荒れ地。塔の外壁からも望めない、死角になる場所だった。
マヤは小高く盛られた草木の中に、傾斜した木扉を発見した。石造りの囲いを塞いだそれは、彼女の侵入を促すように大胆不適に放たれていた。
地下へ続く石階段。マヤは松明の灯る殺風景な通路を進んだ。
しかし、程なくして足を止めた。突き当たりの扉前には、両膝を抱えたモリが虚ろに座り込んでいる。
彼は俯いた顔を上げ、朦朧とマヤを見つめた。そして、音が鳴るほど息を吸い、勢い良く立ち上がった。
「駄目……!」
両腕を横に広げるなり、首を激しく振った。
「やっぱりここだったわ。レンはその中なのね」
歩み寄るマヤを怯えた目で捉え、塞ぎがちに呟いた。
「来ちゃ駄目って言った……」
「彼に会わせて」彼女はモリの前に立ちはだかると、その奥にある扉を見つめた。
「彼に会う必要があるの。ここを通して」
頑なに扉を守る少年の目は揺れていた。無言で唇を噛み、心もとなく首を振る。
「私には分かっているのよ、モリ」マヤの唇が耳元に寄った。
「あなたは私にわざと告げた。レンが地下に居るってことを。私が来ることも分かっていたのね。そうでなければ、言うはずがないもの」
モリの口がわずかに動いた。だが、零れる言葉はなく、苦悩に似た眼差しで一瞥した。
「私を信じて、モリ」モリのこめかみに額をつけた。
「あなたたちを混沌の中から救いたいのよ。だからお願い、力を貸して」
少年は一度目を閉じた。こめかみに伝わる温もりが血管を流れ、腹の底にまで染み込む。
漸く彼女から身を離すと、俯いたまま、閉ざされた扉を開けた。マヤは少年の頭に軽く口づけ、地下に広がる薄闇に紛れて行った。
そこは、壁一つない打ち抜かれた空間だった。点在する松明の灯が、全ての物を壁に映し出す。
細かく仕切った紅い布のパーティションで、レンの姿は確認できない。だが、布壁の奥から漏れる物音が、彼の存在を明らかにしていた。
マヤは前途の見えない迷宮を歩いている錯覚がした。交わる布壁の狭間を縫い、中央へと突き進む。
やおら足元の感触が変わり、子猫のように飛び上がった。彼女が見たのは、床に敷きつめられた薔薇の花弁。それは生気を失い、枯れ果て、乾いた音を鳴らした。
レンの気配は間違いなく近づいていた。布壁に浮かぶ影法師が、彼の形を鮮明に描く。
次第に皮膚を打つ不可解な物音に、男の吐息が重なった。
「レン……?」
おぼつかない囁きが妙に響く。途端に動きを無くした影と共に、辺り一帯の空気が張りつめた。
「誰だ……」返された呟きは、低く掠れた力ないものだった。
「マヤよ」
長い沈黙。仕切りを隔てた向こうで呼吸しているのか、疑問に思うほどだった。
「なぜ……おまえが、ここに……」漸く絞り出たそれは、軋む音を発した。
「薬《レメディ》が出来たの。あなたに試して欲しくて。何も食べずにここに閉じ籠って、心配にな……」
「出て行け」言葉を断つ鋭利な刃物。怯む暇も与えず、更に振り下ろされた。
「ここは、クロエとおれの場所だ……誰だろうと立ち入ることは許さない……出て行け。今、すぐに!」
「嫌よ」
マヤは踵に力を込めると、布壁の裏に広がる秘密の領域に侵入した。しかし、悲鳴に近い尖り声を上げ、その場に立ち竦んだ。
薔薇の装飾を施した、豪華で厚みのある寝具。天蓋からは紅い薄布が垂れ下がり、細かな薔薇の刺繍が宙を揺蕩う。それらの周囲には、寝具の上にも、薔薇の生花が散りばめられていた。どれも赤黒く干からび、濃厚な灰汁のある香りにむせ返った。
レンは片手をマットに置いて、項垂れた背中を向けていた。剥き出しの素肌は恐ろしく腫れあがり、縦横に這う蚯蚓腫れから紅い体液が滲んでいた。
「来るな、出て行け……!」
脂汗の光る横顔がマヤを捉えた。呼吸を全身で刻み、そのたびに眉間が震える。
彼女が動かないと知ると、手にしていた革のバラ鞭を振り上げ、自らの背中に打ち下ろした。同時にせつない唸りが上がる。
「やめて!」駆け出したマヤは、鞭に取りついた。
「どうして、こんなことを……」
「離せ……!」
腕を振るレンに、重りのようにしがみついた。何が何でも離すものかと。しかし、男は指を一本一本引き剥がし、逆に腕を捻り上げた。そして、布壁へ向けて思いきり突き飛ばした。華奢な身体が木枠にぶつかり、たわむ布を道連れに崩れ落ちる。
「マヤ!」
飛び出したのはモリだった。伏した身体を支え、しな垂れた頭を懐に寄せた。
「おまえがこの女を呼んだのか、モリ……」
レンの唇は紫に戦慄いていた。バラ鞭を弟めがけて投げつけ、盾になる肩にぶつけた。
「貴様、どういうつもりだ……どうしてこの女を、ここに……」
モリは顔を上げた。濁る漆黒の目を見つめ、かつて存在した面影を探った。
──モリ、おまえはおれの天使だ。おまえに惨めな思いは絶対にさせない。モリを守る為なら、兄さんは何だってやる──
力強く眩しい笑顔。モリはその顔をみるたびに、安らぎと愛でいっぱいになった。
──おれのような人間にはなるな──
頭を撫でる柔らかい手。赤毛を指で梳いては、眉を弓形に反らせていた。
そう……レンさえいれば、怖いものは何もなかった。どんな時も……。
「戻りたいよ、兄さん。昔のように……」
赤い前髪の隙間から、震える瞳が覗いた。しかし、その碧眼が、男を妙に苛立たせた。
「何度おれを裏切れば気がすむ!」
片手で天蓋を鷲掴み、言葉にならない怒号と一緒に引き剥がした。
「おまえも殺せばよかった!あの女のように!」
炎が見えた。レンの瞳には、蒼白い炎を包む真紅の業火が見えた。それは瞬く間に腕を伸ばし、灼熱の体内に呑み込もうとしていた。
「熱い……」半顔に蘇る、あの時の痛み。じりじりと燻す鈍い感覚に悲鳴を上げた。
炎の音が聞こえる。鼓膜を焼く音。吹き荒ぶ風に似た火の爆ぜる音。割れるガラス。巻き上がる炎に焼かれた聖なる肖像。崩れる祭壇。レンを囲む全てのものが紅蓮に染まった。
「兄さん……」モリの目は涙に濡れていた。
二人を分けた、あの日の出来事。全てが崩れ去った残酷な瞬間を、共に体感していた。
マヤは苦痛にしなる男の体内から、 <魂> が微かに浮かび上がるのを感じた。底の見えない泥沼から、正体を現す鎮めた魂。
今しかない。モリの懐から駆け出すと、唸り続ける身体を抱き締めた。
「レン、私を見て、レン!」空を掴む手を握り返した。
「マヤよ、分かる?あなたは幻を見ているの。私を見て!」
レンは見知らぬ女を見つめた。癖のある長い髪。モリと同じ赤毛を持ち、萎びた頬が浮き上がる。濃い隈に縁取られた碧眼からは、鋭くも澱んだ光が放たれた。
ひび割れた唇が開き、醜く歪んで発した言葉。
──おまえが、居なくなれば良かったのに──
「寄るな……」
血の気を失った男の顔は、更に土色にくすんだ。マヤの肩を力任せに掴み、身を引き剥がさんともがいた。
「モリ、手伝って!」
男はマヤを見てはいなかった。彼女を通して消えることのない悪夢を見る。
モリと二人で暴れる両腕を押さえた。そのまま全員が絡み合い、寝具に倒れ込んだ。
「離せ!」男は仰向けに身体を波打たせ、咽喉が嗄れるまで咆哮した。
「クロエ、クロエ……!」
主を失くした孤独な獣。彼方を彷徨う収縮した瞳。馬乗りになるマヤを通り過ぎ、塔の壁をも貫いて、まだ見えぬ月を見つめた。
「早く……おれを……」
──助けて──
男の唇がそう哀願した。その秘する救いをマヤは見逃さなかった。
「薬《レメディ》を使うわ。しっかり押さえていて」
逃がさない。彼女は素早く身を翻すと、瓶から白粒を取り出し、自らの口に含んだ。そして、呻きを零す唇を塞ぎ、咽頭に向けて流し入れた。口中を満たした温もりに、男の虚ろな瞳が収縮する。それを横目で確認した彼女は、顎を掴んで反らせた。溺れた者のようにすがる熱い舌。助けを求めて、漸く甘粒を呑み下した。
モリはその一部始終を見つめていた。治療者としての彼女に畏敬を抱きつつも、胸を絞り上げる容赦ない痛みに戸惑った。
一方で、彼女はゆっくりと唇を離した。鼻先にある漆黒の目を見つめ、理由もなく込み上げる涙に奥歯を噛んだ。次第に平常を取り戻していく呼吸。土色の肌が朱に染まり、曇った眼に光が射した。
男は朦朧と視線を動かし、静かに天井を見つめた。しかし、それは何も映さない。底なしの空虚。ありふれた言葉では綴れないほどの孤独。
彼女はその瞳に見覚えがあった。水面に映る己の姿。沼地で見る分身の顔には、いつも、その瞳があった。
マヤは泣いていた。男の胸に顔を埋め、抑えきれない嗚咽を漏らした。
モリは暫くの間、そんな二人を静かに見ていた。掛ける言葉もなく首を垂れ、寝具の上から滑り下りた。そして、彼ら二人を残し、ただ一人、布壁の裏に座り込んだ。
マヤの啜り泣きだけが響いた。レンは身を捩ると、強く抱きつく女を見下ろした。消えた背中の痛みに目を瞬き、駆け抜けた悪夢を思い起こす。
だが、それも嘘のように消えていた。静寂を纏う心の内。重く伸しかかった靄さえも、掻き消えた気がした。
「どうして、おまえが泣く。離れろ」
彼の呟きは至極平坦なものだった。マヤは胸から響くその声に、微笑みを浮かべて言った。
「 <魂> を……捕まえた」
布壁に二人の影法師が映っていた。モリはそれに背を向け、長い睫毛を落とした。マヤの啜り泣きが呟きに変わる。
首に巻きつく紅い輪が、やけに重く感じた。彼は指先でそれに触れ、自分は飼い犬以外の何者でもないのだと、悟った。
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