二 平凡の崩壊

「ただいま!」
 ボクは玄関の扉を勢いよく開けた。そうすることで絶望という呪いを払拭しようとした。
 予想通り、廊下の先から母さんと妹の容子が勢いよく飛び出してきた。
「大丈夫なの?翔平!」
 母さんは頭のてっぺんからつま先まで、優しく撫でるように確認した。手首の包帯も見逃すはずはない。
「ちょっと見せてみなさい」語気が乱れている。
 焦げ跡を追及される気がして、後ろに手を回してしまった。
「大丈夫だよ。眩暈がしただけ。ちょっと騒ぎすぎ」
「騒ぎすぎって……手首から血を流して倒れたって聞いたから、母さん、心臓が止まるかと思ったのよ!」
 柳瀬の飄々とした態度からは、そんな騒ぎは読み取れなかった。通り過ごしてしまいそうな、あいつならではの思いやりだ。
「ごめん。心配かけました」
 素直に頭を下げた。こうすることで、全てを有耶無耶にできるのではないかと思ったからだ。
 それでも玄関から上がらせてくれない母は、信じられないという風に言った。
「本当に心配した。すぐにあなたから連絡があったし、柳瀬くんと一緒に帰るから大丈夫って念を押されたからこうしてるけど……あら、柳瀬くんは?」
 血の気が引いた。当然、ボクは連絡をしていない。おまけに、柳瀬まで歯車の一つにされていたことに愕然としてしまった。
「途中まで一緒だったけど、この通りピンピンしてるし帰ってもらったよ」
 声が上擦らないか、そのことに神経を集中した。
「お礼が言いたかったのに残念ね……でも、元気そうで良かった。財布だけ持って飛び出すところだったのよ」
 安堵した二人の顔を見ると何も言えない。包帯をした腕に絡みついてくる妹の容子が、これ以上、何かを追及してこないか気が気ではなかった。
「なあんだ。柳瀬くん、こないんだ」
 母さんがキッチンに向かったのを確認してから、容子は頬を膨らませて言った。
「もう。心配したんだからね。頑張って全速力で帰ってきたんだから」
 歳の離れた妹。小さい頃からボクのそばから離れようとしなかった名残が未だにある。
「ごめん。悪かったな」
 頭をそっと撫でてやった。熱を出した時も、小さな怪我をした時も、おまじないの代わりにせがんできたものだった。
 そのはずが、最近は生意気にも柳瀬に色目を使うようになった。あいつが遊びにくるたびに、用もないのに覗きにくる。「あいつだけはやめておけ」と、素っ気なく忠告してやると──あの柳瀬だ。兄として当然だろ?──パンパンの風船顔になるのが可笑しくてたまらなかった。
「ご飯できてるよ。お父さん、今日は早く帰ってきたの」
 深夜まで働いている父さんが珍しい。きっと心配したからなんだと思うと、心がほんの少し痛むと同時に嬉しくもあった。
 これが家族だ。ボクが生まれてからずっと思い描いてきたもの。
 描いてきた……?
「唐揚げ冷めるから着替えてきなさい」
 キッチンから声が上がった。
 慌てて階段を上りながら考える。なんだろう。時折、現実味がなくなる。まるで、俯瞰するもう一人の自分がいるみたいに。
──絶望を味わうことになる。
 包帯を外しながら、エドモスの言葉を思い返した。あの脈動が嘘のようにアザは鎮静していた。
 あり得ない。ボクを取り巻く黒い靄を両手で払うように立ち上がった。
 食卓には父さんがいた。新聞に目を落としているのに、明らかに上の空だ。
 最近は会話が減ってお互い無口になってきたけど、ボクが近寄るとぎこちなく顔を上げた。
「会社に連絡があってな。その時の母さんの慌てようは隕石でも降ってきたかと思ったぞ」
 父さんなりの冗句。父がそんなことを言うなんて。ボクは思わずブッと吹き出してしまった。
「あら。あなたの声も震えてたわよ」
 振り返りながら置いた皿がドンと鳴った。ボクらは顔を見合わせて笑った。
 それからは久々に四人揃って食事をした。
 ボクの好物を用意してくれた母さん。お酒が軽く入った父さんも頬を赤らめて笑っている。柳瀬をネタにするボク。膨れっぱなしの容子。
 平和だ。良かった。絶望なんかくるもんか。明日になれば、また柳瀬と会ってバカ話をするんだ。夢の深追いも金輪際やめる。
 自室に戻ってからも幸せの余韻に浸っていた。疲れた。とてつもなく長い一日だった。
 そのまま壁にもたれ、携帯電話を眺めるうちに、両肩に乗る鉛で沈められる様に微睡んだ。
 
 コンッ
 閑静な住宅地に響く音。
 コンッ
 まただ。窓ガラスに小石をぶつけられたような違和感。風が強いのだろうか。不規則に、でも連続して音が鳴った。
 ようやく寝ぼけ眼で立ち上がり、カーテンを開けた。朧げな外灯が点滅しているのが見える。妙だ。視界に入るすべての光が波の様に揺らいでいる。そう、月まで。
 空を見上げた。黒い鳥か何かの大群がとぐろを巻いているのが見える。それらは風のような羽音を立て、月や外灯の周囲を旋回していた。
 ぞっとした。日頃は夜間ともなると怖いくらいの静寂に包まれている。そのはずが、奇怪な書物を開いた時に感じる不穏な空気と同等のざわめきを感じた。
 恐る恐る窓を開けた。確認せずにはいられない。それら奇妙な光景がまるで催眠術のようにボクを虜にする。だけど、一羽が群れから離れ、一直線に突進してきたことで反射的に飛び退いた。
 間一髪、窓を閉めた。すると、部屋全体が振動するほどの鈍い音を立て、何かが窓ガラスへぶつかった。
「うわ!」
 肺から息が漏れた。『何か』の頭部が砕かれ、尽き果てた姿でガラスから滑り落ちていくのをゆっくりと目で追った。
 蝙蝠だった。多分。そう断言できないほど、剥き出しの目は赤く、折れた歯は象牙のように鋭い。それに気を取られている暇はなかった。今度は無数の蝙蝠が直角に突進してきた。
 ゴン、ゴン、ゴン、ゴン!
 血塗られていく窓ガラスを前に、為す術もなかった。震える全身。情けないことにボクの足は使い物にならないほど床に埋まっていた。
 容子の悲鳴があがった。一度も聞いたことのないような、絶望的な悲鳴。壁一枚を通して、ザリザリガリガリと鼓膜を削る不快な音が響き始めた。
「容子!」
 叫ぶより早く部屋を飛び出していた。隣の部屋の扉を開けたと同時にボクもまた、声にならない悲鳴を上げていた。
 闇だった。
 開け放たれた窓から見える漆黒と壁紙が一体となって、妹の部屋はポカンと口を開けた狭い空洞のようになっていた。
「どこだ!」
 彼女の姿は見えなかった。ボクの前に広がっていたのは、大小無数の蝙蝠が、壁を、床を、天井を覆いつくしている光景だった。
 それらは羽をこすり合わせ、陽炎のようにうごめいている。
「容子!声を上げてくれ!」
 広い部屋じゃない。必ずどこかにいるはず。
 意を決して闇の坩堝へと飛び込んだ。足裏にぐにゃりとした感覚が伝わる。それでも奥へ奥へと蝙蝠の群れをかき分けた。
「翔平、容子!どうした!」
 父と母だ。バタバタと階段を駆け上る音が聞こえる。しかし、それを阻むかのように、背後で扉が閉じた。
「翔平!容子!ここを開けろ!」
「翔平!」
 二人は全力で扉を叩いた。でも、返事をする余裕などなかった。ボクが優先すべきことは、この闇から容子を探し出すことだった。
 引き笑いが神経を通じて伝わってきた。この声は紛れもなく蛇の男。そう認識した途端、全細胞が忙しなく泡立ち、アザが強く脈打った。
 急がなければ……あいつが現れる前に。
 家具を覆う蝙蝠をむしり取る。隙間はないか。容子が隠れられるような場所はないか。荒れ狂い爪を立てる奴らを薙ぎ払いながら、ひときわ、闇の塊ができている場所を見つけた。
 それはベッドと本棚の間だった。
「容子!」
 確信があった。あそこに容子はいる。
 隙間なく群がる闇の使者を両手で掴んでは床に叩きつけた。見えない。どれだけ覆っているんだ。
 ようやく、肌の一部が見えた気がした。彼女の名前をひたすら呼びながら、奥へと手をやり、蝙蝠ごと腕を掴むことに成功した。
 力任せに引きずり出す間も、奴らの攻撃はやまない。ボクの顔や体に爪を立て、キーキーと音波のような声を上げた。
 絶対に渡すものか。ボクの大事な妹だ!
 胸に抱きしめた。彼女がどんな思いであそこに逃げ込んだか。傷だらけの両腕はだらりと下がり、まるで生気のない人形のように空を見つめていた。
「容子……ようこぉ……」小さな両肩を掴んで揺さぶった。
「ごめんよ、容子……何か言ってくれよ……」
 彼女の目の奥に光はなかった。呼吸していることが奇跡ですらあった。
 途端に闇が動いた。小さな蝙蝠の竜巻が即座に出来上がり、ボクらを台風の目さながらにした。
 轟音が上がった。熱波がボクらを焼く。奴らは手段を選んでいない。例え自らが傷つこうと、命尽き果てようと、威嚇と攻撃を繰り返し、顔を上げていられないほどの旋風を放った。奴らに囲まれて身動きが取れない。容子の上に覆いかぶさって、絶え間なく続く攻撃を背中で受けるしかなかった。
 再び男の笑い声が響く。抗おうと脳内に直接入り込んでくるそれは、確かにこう言った。
──どうしたファリニス。オレをがっかりさせるな。何もかも忘れたとは言わせない。あの憎しみに満ちた目をオレに見せてみろ。
 アザの下で脈が躍った。男と呼応するように、不規則に、独立して。
──わたしが必要になった時には『エドモス』と、たった一言呼べばいい。
 ふと、エドモスの言葉が蘇った。今、この瞬間を待っていたかのように。
 考える間もなく記憶に引きずられ、満身の力を込めて呼んだ。
「エドモース!!」
 それと同時に、光が放たれた。いや、炎だった。ボクが顔を上げた時には、紅蓮のエドモスがそこにいた。
 ライオンのような赤毛から炎の触手が伸びた。それはうねりながら、迫りくる蝙蝠の群れを一瞬で灰にしていく。どんなに猛攻しようと、何モノもエドモスに触れることはできなかった。
 灰の雨が降る。これ如きは造作もないことだと、ひときわ輝く金眼が告げていた。
──エドモス。まさか貴様が……ファリニスの下部と化したか……。
 男の声が霞んで消えた。闇の坩堝も破壊され、灰にまみれた部屋だけが無残に残った。
「エドモス……?」
 ボクの声は掠れていた。見下ろすエドモスと視線が合致した時、炎の精霊──たぶん、精霊だ──は、ゆっくり近寄ってきた。
 恐れを感じない。どうしてだ。異質な存在を簡単に受け入れている。
「あなたが呼ばねばわたしは何もできない。あの男の攻撃はこれからも続く。今、以上に。男が望むものはあなたの苦しみ。それが何を意味するか、聡明なあなたなら分かるだろう」
 エドモスの目に濁りはなかった。これが現実なのかわからない。夢の続きなのかもわからない。ただ、このままではあの男に精神を侵食されてしまうのはわかった。そして、なにより、家族に危害が及んでしまうことも。
「これがあんたが言っていた絶望……」
 エドモスは何も答えなかった。その代わりに、片手を緩やかに差し伸べてきた。
「あんたと一緒に行けば家族が救えるなら行く……二度とこんな思いはしたくない。大切な人を傷つけたくない」
 さながらこの言葉を待っていたかのように、エドモスの金眼が光った。
「あなたを待っている人たちがいる。とうとうファリニスの作戦が成就する時が来た」
 エドモスは人差し指をボクの額に当てた。
「目覚めた時には全てが変わっている。その覚悟はあるか」
「覚悟?」ボクは笑った。「そんなものはないよ。でも行くしかない。そうだろ?」
 容子の力ない手を握った。ボクの唯一の場所、唯一の肉親を守る為に。
「目覚めた後、町はずれの倉庫に来い」
 質問する暇もなかった。指が額を掠めた瞬間に、意識がゆっくりと遠のいていった。
「今はなにもかも忘れて安らかに眠れ。あなたにとって、悪いようにはしない……」
 守るとはどういうことなのか。ボクは何も知らずに身を横たえていった。

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