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紅い月がのぼる塔/25.雌の首輪

 男が目の前で這いつくばろうと、クロエは鏡を見たまま口の端一つ動かさなかった。そんな女から吐き出たのは、水面に張る氷に似た、薄く冷ややかな言葉だった。

「雌のにおいがする」

 レンは矢で射抜かれた獣のように反応した。すると、女はその横顔を櫛で打った。

「わたしはおまえに何と言った」

 感情のない冷酷な瞳は断じて動かない。更に困惑する男を眇め、逆頬を張った。

「言ってごらん」

 マヤは呆然と立ち竦むしかなかった。二人の間には、明らかに他人の入り込む隙のない、特別な主従関係がある。

「女色を、禁じると……」

 乱れた黒髪が両頬を覆い、その下からレンの掠れた声が漏れた。女は途端に口端を歪め、その髪を櫛で掻き上げた。消滅していく傷跡を眺めると、硬い獣毛を咽喉に滑らせた。

「分かっていながらぬけぬけと。おまえはどこまでも貪欲で意地汚い犬。それとも、抱いた女の前で、お仕置きをされたいの」

 震える肌に押し付けた獣毛を胸まで這わせ、服の上からしこりを撫でた。その軌道には、幾筋もの紅い掻き傷が残った。

 レンは食いしばった歯の隙間から吐息を漏らした。身体は否応無く跳ね上がり、羞恥と痛みの中で、溶けるほど熱く燃えたぎった。 ついには女の膝に身を崩し、助けを求めてすがりついた。

 クロエは漸く櫛を滑り落とした。そして、火照った身体を持て余すレンを、満足そうに見つめた。

 マヤは例えようのない嘔吐感に鳥肌が立った。彼らの毛穴から滲み出るのは、長年に渡り染みついた粘りのある体液。目の前にいるのがあのレンだと忘れるほど、淫猥で惨めな男の姿だった。

 退くマヤに対し、女は好奇の一瞥を向けた。前触れのない視線の合致に、彼女の心臓は恐ろしく振動した。

「ずいぶん可愛らしい子猫だこと。ここへおいで」

 クロエは一転して甘く囁き、添え物の微笑を浮かべた。それは以前にも見た、あの勝ち誇った微笑みと同種のものだった。

「どうしたの。わたしに興味があったのでしょう。早くここへ」

 優雅に差し出した手には、深紅の宝石と手入れの行き届いた紅い爪が装飾されていた。己の隣に招き、足元に伏すレンに目もくれない。

 側に近寄ってはならないと、マヤは本能で感じていた。しかし、身体の一部はそれに反して、女の領域に入りたがっていた。

 手の平に脂汗が滲む。抗えない視線は美しく、訝しく、隠れた底を見透かす千里眼さながらだった。

 その妖しい微笑の虜になり、ゆっくりと歩み寄った。マヤを誘う白く長い指先。時折、艶かしく動いては、遊具のように視線を奪う。

 マヤは無意識に手を差し出していた。そのしなやかな指先に魂が吸われていく。すると、女はその手に指を絡め、隣へと強引に寄せた。

 違和感を覚えるほど冷たく、乾いた手だった。しかし、指先だけが、じっとりと濡れているようにも感じた。

 女の隣に身を寄せたその時、麝香の香りが鼻を突いた。

──においが……きつくて──

 閃きだろうか。あの時のモリの言葉が、無慈悲に脳裏をかすめた。

 麝香。そうだ、彼は確かに麝香と言った。あの時は気に留めなかったけど、もしや……。

 だが、思い巡らす余裕などなかった。女の視線はどこまでも狡猾に、マヤの隙間に入り込もうとしていた。

「とても素敵な髪の色。それに綺麗な肌をしているわ。マヤ……」

 知らぬ間に波に呑まれていた。女に腰を引き寄せられ、体温を感じるほど接近していた。

「素敵よ、マヤ。あなたの瞳はとても孤独。その奥にある秘めたものを、わたしに見せてごらん……」

 魂に口づけをされた気がした。瞳の奥に網を掛け、紅い唇から吐き出る言葉が淑やかに抱擁する。ふつふつと心が粟立とうと、身体はその大いなる波に委ねられようとしていた。

「レンはあなたを悦ばせたの?」

 間近で見るクロエの微笑は、この世の者とは思えない毒の美しさがあった。些細な所作すら見逃したくない。そんな欲求が芽生えるほど、人知を超えた妖艶な姿態。これがモリの言う悪魔の仕業だとしたら。マヤの中に言い知れぬ不安が湧き上がった。

「クロエ!」

 とうとうレンの吼え声が上がった。

 マヤはその声で漸く気付いた。クロエが胸元に指を這わせていたことを。驚愕に目を剥いた彼女に、女は奇怪な嘲笑を向けた。

「沼地の魔女。あなたが知りたいことを教えてあげる。ぜひ見て欲しいの。わたしの躾た <犬> を」

 そして、レンの手元に黒革の首輪を落とした。

「いつものようにしてごらん」

 彼は刹那、黙して首輪を見つめた。だが、おもむろにそれを掴み、当然のように首に回した。

「レン!」

 マヤの叫びなど届かないのか、淡白に首輪を着け、革のバラ鞭を咥えた。クロエの前で四つん這いになり、ねだるように顔を上げる。

「そう、お仕置きが欲しいの……」

 女の顔に愉悦の笑みが浮かんだ。しかし、そのバラ鞭を造作無く取り上げ、布壁へと放り投げた。

「仕置きを望むなら、おまえの卑しい姿を見せなさい」

 残酷な神が舞い降りる。

「雌犬におなり」

 レンは全身を痙攣させた。両手を握り締め、唇を強く噛むと、紅潮していく己を振りきった。そして、クロエの下腹部へ顔を埋めた。

 男はまさに犬のように、薄いドレスの上から歯を立てた。餌を貪る飢えた獣さながら、両腿の狭間に喰らいついた。

 マヤは鋭く息を吸い、クロエの元から立ち上がろうとした。しかし、素早く腕を掴まれ、再び隣へ引き寄せられた。

「どこへ行くの、マヤ。目を逸らさずに見なさい。これがあなたの知りたい真実。わたしと飼い犬の、 <愛> の形」

 レンの唾液が黒いドレスに染みをつくる。その薄い繊維の下からは、熱い塊が形を成し、盛り上がり始めた。

 マヤは目尻に涙を滲ませた。だが、信じ難い光景に息を詰めると、クロエの仰け反る身体を凝視した。

 男の顔が腿へ滑り、ドレスの切れ込みから内部へと侵入する。それを女は悠然と見つめ、時折、咽喉の奥から熱い吐息を漏らした。

 レンは頭を上げた。同時にたくし上げたドレスから零れ落ちたのは、見紛うことなき天を指す、男のものだった。

「両性……具有……」

 マヤはそれだけを呟き、叫び出したくなる口を両手で覆った。まさか、クロエが……。

 女の荒い息遣いが聞こえる。片手でレンの髪を掴み、卑しく貪り食う姿を熱い眼差しで見つめた。そして、レンの表情もまた激しく昂り、彼らから溢れる熱が大気のように混ざり合った。

 薔薇の褥が白く霞んでいく。マヤは朦朧と二人を見つめ、これから起きる愛の営みに、戦慄した。

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