紅い月がのぼる塔/12.亡霊になった少年
レンは組んだ膝にリュートを乗せていた。広間の窓際に座り、手持ち無沙汰に弦を爪弾く姿は、まるで吟遊詩人《トルパドール》のようだとマヤは思った。
彼の瞳は彼方を見ていた。太古に思いを馳せる音に、彼女は暫し耳を傾けた。
いつもこうしていたのだろうか。昼下がりのレンはどこか儚く、壊れ物のように見える。
「何が訊きたい」
彼は果てを見つめながら、ぽつりと零した。優れない顔色の下に広がる静かな波。その指先は動き続け、消え入る調べを奏でた。
「ここに来る前。あなた達がどんな生活をしていたのか」
レンの指先が止まった。困惑することはない。それを語らねばならない事は、彼にも分かっていた。
唇が躊躇いがちに動いては止まる。少しずつではあったが、記憶の扉を開こうとしていた。
「最後までしてもいいよ、レン」
少女は厩の片隅で呟いた。乾燥させた牧草の上で、二人はぎこちなく抱きあっていた。
「無理するなよ。まだ、子供だろ」
レンは少女の上から身を起こすと、シャツに付いた牧草を払った。
幼さの残った鼻筋。相反する大人びた漆黒の瞳が、謎めいた色香を醸す。その肌は麦穂色に焼け、なめした革のように艶やかだった。
「子供じゃないわ、もう大人よ」少女は軽やかに跳ね起き、立ち上がろうとするレンを見つめた。
「あたし、女になったの。母さんが、もう子供が産めるって言ってた」
鼻から息を吐いた少年は、顔にかかる黒髪を耳に掛けた。
毛先を丁寧に巻いたブロンドの少女。両脇の髪を頭頂で結び、シャツのボタンを三つほど開けている。そこに性は感じないものの、血色のいい肉厚の唇は、確かに危うい魅力があった。
「軽々しく言うなよ。初めての相手はもっとまともな奴にしろ」
散々唇だけは食んだ自分に、そんな事を言う資格があるのかと、彼は密かに呆れていた。
「レンだってまともよ。あたし、レンだったら構わない」
もう引き際かもしれないと思った。少女の瞳が熱くなればなるほど、罪の意識も感じる。
「その言葉、モリには絶対に聞かせるなよ」彼は濃密に息苦しくなる空気を断った。
「あいつはおまえを聖女か何かだと思っている。それに……おれはまだ死にたくない。司祭様の娘に手を出したと分かったら殺される」
苦笑混じりに返し、唇を尖らせる少女に一瞥を投げた。
「もう行くよ。あれはどこ?」
彼女の胸が恐ろしく高鳴っているのを、レンは気付いていた。
「いつもの場所……」
気付いていながら、素っ気なく踵を返した。
「悪いな」
「待って……!」立ち上がった少女は、大人びた背中に告げた。
「レン、気をつけた方がいいよ。昨日村の人たちが、あんたのことを話してた。あたし、聞いちゃったの。次はもう許さないって言ってた。父さんは説得してたけど、もう駄目だって……」
足を止めたレンは、刹那顔色を変えた。床に散った牧草を見つめ、もぞもぞと背中に這う悪寒に耐えた。
「立ち聞きか。悪い子だな」しかし、すぐに顎を上げると、澱みなく言った。
「そうか、気をつけるよ。悪いな」
片手を振って歩き出す少年に、彼女は更に懇願した。
「ねえ、本当にやめな……」
振りきるように厩を出た。後を追う声に耳を塞ぎ、辺りに他人の気配がないのを知ると、壁に並んだ農具に触れた。
錆びたレーキや鎌が乱雑に置かれたその陰に、赤茶けた袋が忍ばせてあった。
レンはそれを急いで引き出すと、袋を開けて中身を確認した。だが、彼からこぼれたのは深い落胆の溜め息。
これだけ、か……。堅いパンの塊が幾つかと、もぎ取ったばかりの果実が両手で足りるほど。袋口を乱暴に掴み、それを抱えて走り出した。
辺りは黄金色に染まり、風の通り抜ける人気のない牧草地が広がっていた。その脇を通り抜け、木々の狭間を縫った。鳥の飼育小屋を過ぎると、家はもう近付いていた。
青い塗料の剥げた家屋の前には、幼い少年の姿があった。庭を囲む吹きさらしの柵を掴み、その下に縮こまるように座っていた。
「モリ……どうした、こんなところで」
弟の側に膝をつき、口を引き締めた顔を覗き見た。しかし、全身を硬直させた小さな少年は、柵から手を離そうとはしなかった。
「母さんの具合が悪いの……?」
弟の頭に軽く触れた。すると、モリは一点を見つめ、操り人形の如く頷いた。
「遅くなってごめん……」
動こうとしない弟を、背後から強く抱き締めた。両足の間に萎縮した身体を引き寄せ、俯いた首筋に顔を埋めた。
「大丈夫。おれが帰って来たから。一人にしてごめんな。もう、大丈夫……」
モリの手が柵から滑り落ちた。背中に兄の鼓動を感じる。首筋にかかる息にくすぐったく身を捩ると、その頭を引き離そうとした。
しかし、レンは意地悪く鼻を寄せ、うなじに息を吹きかけた。同時に転がり出る笑い。二人のじゃれ合う声が重なり、静寂の流れる村道に鐘の音が鳴った。
「お腹がすいただろ」レンはパンと果実を取り出すと、モリの小さな手に乗せた。
「それ食べて、ここで待ってな」
モリは目の前の欲求に逆らえなかった。無言で果実にむしゃぶりつき、口一杯に頬張る。上下に揺れる無邪気な両頬を、レンは微笑を浮かべて見つめた。
艶のある絹に似た赤毛。長い睫毛を持つ澄んだ碧眼は、飴玉のように甘く愛らしい。
兄の視線を気にしたモリは、上目遣いに口を動かしながら、齧りかけのパンを差し出した。
「いいんだよ。おれのはちゃんとあるから。全部食べていいんだぜ」その頬を優しく突いた。
レンの視線は寂れた家屋の奥に向けられた。荒廃した庭を足早に通り抜け、半開の扉を引いた。
「母さん……」
家の中は薄暗かった。籠った空気に異様な生活臭が絡む。その臭いを嗅ぐたび、死臭とはこんなものなのかもしれないと思った。
玄関の先は額ほどの食堂だった。手狭なここに不釣り合いな広いテーブル。床の半分以上を塞いだそこに、黒い人影があった。
「おれだよ、母さん」レンは黴た調理台を探り、燭台に火を灯した。
布を被せた締めきった窓。壁に据えた棚には埃が積り、流しを使った形跡もない。まるで廃屋の一室を見つめているような、閑散とした静けさだった。
「明かりも点けないで何を……」
人影に明かりを向けた途端、それを滑り落としそうになった。光の輪の中に居た母は、絵画に描かれた悪鬼そのもの。
長い赤毛は振り乱れ、こけた頬骨を覆っている。飛び出た眼球は光を呑み込み、ただ一点を見つめていた。
手にはナイフを握っていた。それを断続的に振り下ろしては、広げた布に突き刺す。正確には布をずたずたに引き裂き、その下のテーブルを掘り起こしていた。
「母さん、何してるの。危ないよ!」レンは床に足を滑らせ、母親ににじり寄った。
「それ、父さんの……」
父親のスカーフだった。彼がいつも首に巻いていた草色のスカーフ。
父の分身とでも言うように、母親は毎日それを握り締めていた。食事を取る時も、眠る時も。夫が消えた、その日から……。
「危ないから、ね。ナイフから手を離して」
片手を差し出すレンに、彼女は虚ろに言った。
「モリ……私の、モリ……」
「おれだよ。モリは怖がってるよ」
動きを止めた手から、刃こぼれのした鈍色のナイフを取り上げようとした。すると、彼女はおもむろに振り被り、それを布の上に突き立てた。
「亡霊!」
すんでの所で身を反らせたものの、レンの身体にはその衝撃が矢のように突き立った。
「母さん……」
「出て行け、亡霊!」
両手で頭を抱えた女は、咽喉の壁を貫き、凍える奇声を発した。その姿は、呪いの言霊を吐く妖女に見えた。
母親は正気ではない。レンはその事を理解していた。父親が理由もなくこつぜんと消えた日から、母の精神は泥濘《ぬかるみ》に浮かんでは溶けた。
「モリ……」椅子から立ち上がる黒い影は死神に似ていた。
「どこなの……おまえだけよ……私の、モリ……」
その視線はレンの前を通り過ぎ、扉へと向けられた。
「駄目だ!こんな酷い姿、モリには見せられない。しっかりしてくれよ、母さん」
前に立ちはだかる息子を、彼女は視界に入れようとはしなかった。レンの存在を認識していないのか、それとも故意なのか、いつの時も素通りを決め込むばかりだった。
「どうしておれを見ないんだよ……父さんと似ているから……?」
幾度となく繰り返してきた言葉。諦めと希望を繰り返し、奇跡の時を待つ。
誰もが見離した母。生きる事すらままならない彼女を憎むことも出来ず、そんな自分に苛立ちも感じた。
かつて、妖精の化身と呼ばれた面影は微塵もない。なぜ父が、母を置いて消えてしまったのか……。その頃のレンには、理解ができなかった。
レンの両目から涙が零れていた。しかし、彼はそのことに気付いてはいない。
弟の名を呼びながら彷徨い続ける視線。一時もその中に入ることが出来ない自分は、何の為に存在しているのか。
──亡霊──
母にとって、レンの存在は消えたはずの亡霊。父の姿だった。
「消えろ、亡霊!」
憎しみを込めたその罵倒が、唯一の存在意味を告げる。
彼の両耳に届くのは、泡のように死滅していく細胞の音。例えその身が亡霊であっても、存在が消えるよりは救いなのだと、その時は信じていた。