紅い月がのぼる塔/7.服従の証
モリは水を張った桶を並べ、かき集めた布でぎこちなく床を拭いていた。
「何をしている」
薄闇の中から浮き出たのはレンだった。床に這う弟を嘲笑し、綿布で覆った足首を爪先で突いた。
モリは両肘から崩れたものの、無言で身体を起こし、再び素知らぬ顔で続きを始めた。
「マヤが居てくれるから。綺麗にしなきゃ。どこにも行かないって言ったよ」
その声音は心なしか弾んでいた。閉ざされた犬小屋に突然射した希望。モリの口元に笑みが浮かび、布を絞る律動すら喜びに満ちていた。
それに反してレンの瞳は、海すら干上がらせる業火に焼かれた。腹の底から息を吐き出し、皮肉に笑う。
「マヤか。は、浮かれやがって。無能なおまえが女の為に尽くすようになるとは……」
弟の頭頂を掴み、上体が浮くまで持ち上げた。
「天地がひっくり返る」
皮膚ごと浮き上がる衝撃に、歯の隙間から唸りが漏れた。
「惨め。憐れ。おまえらしいやり方だ。あの女も見事に釣れた。いったいどんな手を使ったんだ。え、教えてくれ」
兄の冷酷な視線を逃れ、目を伏せた。しかし、男はモリの顎を乱暴に掴み、鼻先に近付けた。
「魅惑の碧眼《ターコイズ・アイ》で見つめてやったか?それとも、この、いやらしい唇で誘惑したか」
指の腹を唇に押し付け、口中に突き入れた。
「やめて……」
背ける顔を押さえ、その指で舌を掻き回した。
「とんだ天使だな、おまえは。だが、勘違いするな。あいつはおれの為にここに居る。おまえはおまえらしく、埃と一緒にネズミと戯れていろ」
口中を屈辱的に弄ばれ、モリの目尻に涙が滲んだ。
「兄さん」
「なれなれしく呼ぶな!」
次には丸太を転がすように突き飛ばされていた。
「あの日から、おまえは他人だ。二度と、兄と呼ぶことは許さない」
崩折れたまま、無言で頷くしかなかった。止まらない唇の戦慄きに、息をしゃくり上げる。
「クロエからの贈り物だ」
男の手の平から滑り落ちた物。それは、モリの肩で跳ね落ち、床で回転した。
金属の留め金を無機質に光らせる、毒々しくも情熱的な帯状の輪。その深紅の革を凝視した途端、咽喉に塊が詰まるのを感じた。
「着けろ」
レンは冷やかに言った。そして、身を強ばらせる弟に、膝を折って付け加えた。
「それとも……着けて欲しいのか?」
モリは蒼ざめた顔を向けた。兄にそれだけはされたくない。獣のように、繋がれることだけは。即座に震える手を伸ばし、皮肉なほど艶やかなそれを握った。
白い細首を束縛する服従の証。生を保つわずかな温もりすら奪い、たちまち厚い壁に囲まれた、暗い檻へと誘う。
「クロエが言った。モリは放し飼いに出来ない。いずれ主を噛む悪犬になる」
男の口端から息が漏れた。
「着けていろ。その <悪犬> になる前に」
乱れる感情に指先が震える。金具に手間取る弟に、自らの手を重ねたレンは、そのまま優しく嵌めてやった。
「こりゃあいい!」そして、突拍子もなく笑い出した。
「野良犬が従順な飼い犬に化けた瞬間だ」
儚さの中に浮かぶ情熱のコントラスト。モリの不均衡な首筋から、惨めで淫猥な美しさが放たれた。
「似合うぞ、モリ」
溜め息を零し、弟の頬に軽く口づけた。
「暗いわ、ここ」
暗闇から反響する声に、二人は振り返った。足を引き摺りながら現れたマヤを、彼らは呆然と見つめた。
亜麻色の髪は乱れ、抱えきれない程の草花を携えている。両腕や服を泥で汚し、肩掛けのほつれた麻袋からは、鉛に似た黒い鉱物が今にも零れ落ちそうだった。
「逃げなかったのか」レンは侮蔑と笑いを混ぜて吐き出した。
彼女は重い袋を肩から滑り落とすと、床ににべもなく置いた。草花をその上に丁寧に重ね、自由になった手の平を服に擦りつけた。
「これで治療を始められるわ。明日からそのつもりで……」
しかし、途端に語尾を呑んでいた。座り込むモリの細首から、けばけばしい首輪が主張していたからだ。
「なによ、それ……」
モリは無言で床を拭き始めた。傍らで不敵に立ち上がるレン。その不自然に流れる沈黙に、マヤは眉根を寄せた。
「首輪。どうしてそんな……モリ?」踵を返す男に、噛みついていた。
「待って、平気なの?弟がこんな物を着けているのに、どうして笑っていられるの」
レンは気だるく髪を掻き上げると、冷酷に眇めて言った。
「おれ達のことに口を出すな」
「レン!」
そして、返る言葉を背中で弾き、闇に溶けて行った。
「こんな物、外しましょう」
近寄るマヤに、モリは首を振って制した。
「ぼくが着けたの」その声は軽快に響いた。
「綺麗でしょう」汚れた布を桶に浸した。澱んだ水に潜らせるたび、黒い靄が広がる。
モリは、架空の夢を見るように、それに意識を向けた。
「モリ、そんなものを着けなくたって、あなたはとても綺麗よ。レンと同じように身なりを整えれば、きっと素敵になる。そうすればレンだって、こんな物……」
浮かび上がる灰色の繊維を見つめた。その周りに付着した黒い綿埃が、くるくると円を描く。
「私、気付いたのよ」
もう、水をかえなきゃ駄目だと思った。布の奥にまで黒い染みが侵食する。
「マンドラゴラス。何故あの植物が意識を奪うのを知っていたの。あなたは私の療材からあれを選び出した。そして、麻酔と同じように海綿に浸した。あの知識はどこから?」
──そいつはちょっと、 <頭> がな──
マヤの脳裏に、男の嘲笑が浮かんだ。
「嘘よ。あなたは……」
桶が勢い良く返った。飛び散る汚水と共に、けたたましい悲鳴が上がる。
「綺麗にしたのに!」
モリは汚れた布を放り出し、服の裾を使って堰き止めた。水に塗れた床に座り込んでは、奇声を上げて転がり回る。
「モリ……」
マヤを尻目に、はしゃぐ少年。無邪気に笑いながら、身体に汚水を染み込ませた。
力なく膝をつく彼女に、モリは振り返って言った。
「ね、綺麗になったよ」得意満面の微笑みと、雑巾と見紛う全身。
「レンみたいにならない。だって、面倒だもん。このまま水浴びすればいいよ。ぼく、いっぱい読んだの。知ってる?いっぱい本があるの。全部読んだよ。すごいでしょ。マンドラゴラス。眠りの花」
なおも転がり続けるモリを見つめ、マヤは両肩を落として項垂れた。しかし、ほどなくして立ち上がると、黙々と草花を抱え始めた。
「食材があるのを見たの。ここに居る限り、食事は私が用意する」
淡々とそれだけを残し、静かに背を向けて立ち去った。
彼女の姿が消える頃、モリは漸く床を見つめて起き上がった。蓋をした胸に込み上げる、苦しくも激しい炎。
顎に触れる冷ややかな首輪を掴み、揺れる視線を流して言った。
「ありがとう、マヤ……」
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