紅い月がのぼる塔/30最終話.月の塔
「兄さん!」
崩折れるモリの両脇を抱えたマヤは、炎の壁を前に絶叫した。
「行くのよ!」
塔内の其処ここから火の手が上がり、瞬く間に業火の渦に呑まれていく。
「いやだ、行かない!」
モリは手を振り払い、泣き喚く子供に似た眼差しを向けた。しかし、彼女は更に腕を掴むと、力強く諭した。
「レンがそれを望んだの!」
揉めている間などない。最後に彼はマヤを見たのだ。まるで、モリを託すと言わんばかりに。その意思を、捨てるわけにはいかなかった。
力ない少年を懸命に引き摺り、螺旋階段を駆け下りた。炎に生命が宿っている。幻すら焼き尽くすつもりか、それは、彼らの後を追い続けた。
薔薇のアーチを潜り抜け、コンコースを走った。炎は常に先を回り、潮を噴く荒地を縦横に舐めた。
彼らはその狭間を縫った。息をきらし、灼熱を感じながら、石階段を滑り下りた。
二人は手を繋ぎ、足場のおぼつかない崖淵を走った。消え行く紅い月。その下を、浜辺に沿って駆け抜けた。
どこまで走ったのだろう、彼らは漸く立ち止まると、後ろに振り返った。崖の頂上に聳える、鈍色の鋭利な月の塔。それは、苔むした肌を炎で包み、朝焼けの空に黒煙を吐き出していた。
「レン!」
モリはかつての犬小屋に遠吠えした。兄はあの中にいるのだろうか。月の塔と共に墜ちたのか。全てが呆気なく、夢物語のように消えていく。
──モリ、おまえを、愛している──
打ち寄せる波に足先を洗われ、両膝から崩れ落ちた。声を上げて泣いた。砂を掴み、そこに全てを吐き出すように、兄の姿を石に刻んだ。
その言葉がどんなに欲しかったか。兄さん……。
マヤは共に腰を落とし、泣き崩れる少年を見つめた。きっと、長い夢を見ていたのだ。クロエの存在すら明らかにならないまま、炎の粉雪に塗れる塔を一瞥した。
クロエは何者だったのか。レンを連れて炎の波に巻き込まれた女。マヤにはどうしても、二人の結末が信じられなかった。
彼らは夜明けまで動かなかった。寄せては返す波音を聞き、沈黙の中で、湧き上がる想いを噛みしめた。
空が青白く澄み渡る頃、モリは漸く涙を拭い、顔を上げた。
「兄さんは、クロエと一緒になれて良かったのかもしれない。今ならそう思える」
兄は心からクロエを愛していたのだと知った。だからこそ……。
「それ、持って来てくれたんだね」
マヤが抱えた箱庭を見つめて、どことなく寂しげな微笑を浮かべた。
モリはそれを受け取ると、ゆっくり蓋を開けた。木彫りの人形たちは、箱に投げ入れた玩具さながら、乱雑に折り重なっていた。
マヤはその人形を、以前とは異なる気持ちで見つめた。レンを苦しめた村人たち。それを、なぜモリが大切にしているのか、疑問すら感じた。
彼は木彫りの村人たちを取り上げると、おもむろに波の上に浮かべた。
「モリ……」
それは、砂浜に何度も押し返されながら、徐々に沖へ流れていく。
「どうして」
マヤは俯くモリの顔を覗き込んだ。彼の想いが、どうしても掴めずにいた。
「水に還してあげたかったんだ。みんな一緒に」モリの微笑は崩れない。
「一人一人、記憶を辿って、その当時のことを思い浮かべながら彫った。みんな、優しかったんだと思った」
しかし、不意に手を止め、ほんの一瞬だったが、暗い影を落とした。
「でも、兄さんを苦しめたことは許せない。すごく憎い。そう思っているのに、ぼくの記憶には、マレーナのすました顔や、草木に話しかける滑稽な妖精じいさんの笑顔が、今も鮮明に焼きついているんだ」
彼はマヤを見た。泣き出しそうに複雑な笑顔を浮かべ、噛みしめるように言った。
「みんな、炎の中に消えてしまった。だからね、水に還してやるんだ。ぼくの思い出と一緒に」
モリはとうとう箱庭をひっくり返すと、躊躇いもなく、家屋や山羊のマルコビッチを沖へ投げた。弧を描く人形に、解放した記憶を乗せて。
母も、顔のない父も、幼少の自分さえ海に還した。その度に、この碧い瞳に新たな光が射し込んでくるような気がした。
だが、最後の二体に手を止めると、片方をマヤに渡した。それは、マヤの人形だった。
「あげる」モリは笑った。
「我ながら良く出来てる。すごく観察したからね」
マヤは悪戯で寂しげな照れ笑いが愛しかった。しかし、それを刹那見つめると、沖へと放り投げた。
「なんで……」
モリは呆然とした。
「ずいぶん変わったわ」彼女は振り返ると、眉を顰めるモリに苦笑した。
「私自身が大きく変わってしまったの。沼地しか知らなかった頃の私とはまるで別人。月の塔が、私に真実の姿を教えてくれた」
心に空洞が出来ていた。養母が亡くなった時も、孤独に眠る時も感じたことのないほどの、虚しさだった。
「レンの言う通り、私は平凡な女だった。たいした魔女じゃなかったの。思っていた以上に愚かで、真の孤独を恐れていた。治療者としての誇りも失ったわ。結局私に残ったのは、夢のような月の塔の記憶と、失ったものへの憐憫だけ」
モリは懸命に首を振った。そして、彼女の手を握って言った。
「マヤは偉大な治療者だよ。あの兄さんが間違いなく変化していた。ぼくには直ぐに分かった。レンがぼくを愛してくれたのも、きっとそのせいだ。ぼくだってほら、別人みたいに……」
彼は突然、言葉を止めると、大人びた真摯な視線を向けた。
「あなたを守りたい、マヤ」
その手に口づけ、そっと胸に抱いた。
「ぼくが大人になるまで、待っていてくれる?必ず、あなたを守れるような大人になる」
「モリ……」
モリの視線が眩しかった。かつて、前髪の隙間を縫っていた視線とは思えないほど凛々しく、そして、美しかった。
二人は手を取って歩き始めた。モリの手の平には、レンの木彫りの人形が握られている。
背後に聳える月の塔からは、黒煙が跡形もなく消えていた。だが、彼らはそれを語ることなく、沼地へ向けて歩き出した。
月の塔。人々はまた、それを呪われた城と呼ぶだろう。ゴーストの住まう城と。
サポートをしていただけると嬉しいです。サポートしていただいた資金は資料集めや執筆活動資金にさせていただきます。よろしくお願い申し上げます。