紅い月がのぼる塔/22.矛盾
「モリをどこへ連れて行ったの」
黒い上質の衣を整えながら現れたレン。マヤはそれを怪訝に目で追い、静かに問いかけた。
しかし、男は広間の片隅に立てかけたリュートに触れ、軽い口調で返した。
「捜し出そうなんて思うなよ。これ以上深入りすると、おまえを殺しかねない」
ただ、連れ去っただけではないのだ。予感と共に、向けられた背中につめ寄った。
「モリは自分の意志に素直になっただけだわ。それを……」
「悪いようにはしない。おれの <弟> だ。奴は気楽にやっている」
振り返った口元には皮肉の笑みが浮かんでいた。悠々と椅子に腰かけ、胸を塞ぐ黒髪を掻き上げた。気だるく吐息を零す満ち足りた様子に、彼女は強く踵を返した。
「どこへ行く」だが、遮る声は鋭かった。
「おまえはここに居ろ。これからは、どんな時もおれから離れることは許さない。食事の時も、眠る時も」
その独善的で強引な物言いに、説明のつかない昂りと粟立つのを感じた。不満を感じながらも途端に逆らえなくなるのは、彼に <それ> があるからだ。
「いつも矛盾しているのね」呑まれそうな己に警鐘が鳴る。
「私を追い出そうとしたかと思えば、今度は離れるなと言う。てっきり私が憎いのかと思った」
両手で服を握りしめ、唇を歪ませた。
「憎い?」レンは顔を上げるなり、鼻で笑った。
「それは情のある者に対する感情だ。生憎おまえには何の情もない」
リュートの弦を締め、軽く爪弾いた。
彼の言葉は容赦なく相手を貶める。それが分かっていても、なぜ放っておけないのか。長い睫毛の下で揺れる冷ややかな瞳に、そう投げかけた。
「あなたは全部欲しいんだわ。クロエもモリも、私も。でも、本当に欲しいものはなに?」
男は熱を増していく口調に苦笑した。そして、軽く視線を上げておどけたように返した。
「安心しろ。欲しいのはおまえじゃない」
千の矢が放たれた。無自覚な言葉の選択とは思えず、唇を強く引き締めた。
「どうした、その顔は。プライドが傷つけられたか?」
好奇に晴れ渡る男の顔。もはや、モリが語ったレンの姿は夢物語なのかもしれない。混在する気持ちに揺れ動いた。
「いいえ、貶められるのは慣れているわ。ただ……悲しくなるだけよ」
彼女は大きく息を吸い、震えそうになる自分に耐えた。
レンは手を止めた。そして、奥歯を噛む彼女を、静かに見つめた。
それからは、マヤを離さなかった。どんな時も目の届く範囲にいることを強要し、何を語る訳でもなく気配を感じ続けた。
「モリにこれを呑むように言って」
食事の銀盆に白粒一つを乗せた。それは滑らかに角に転がり、レンの目前で止まった。無言で直視する眉が不審に動く。
「ただの塩玉よ。それくらい良いでしょう」
口数少なく返す彼女に、レンは冷めた視線を向けた。しかし、黙したまま踵を返すと、盆を手に部屋を出た。当然、鍵をかけるのを忘れない。そうして、一日に一度、弟の元へ食事を運んだ。
モリは檻の壁際に寝具を寄せ、その上で格子窓を塞ぐ雑草を引き抜いていた。もしかしたら、マヤが近くを通るかもしれない。その一筋の希望を支えに、気の遠くなる不安を払拭していた。
やおら空気の流れが変わった。微かに押し寄せる湿気臭に手を止めると、通路の奥を凝視した。
レンだった。彼は表情一つ変えず、弟の視線を冷然と受け止めた。今にも喋り出しそうな唇を眇め、銀盆を鉄格子の小さな開き戸から差し入れた。
「マヤは大丈夫なの」
降り注ぐ疑問にも答えない。銀盆と一緒に本を押し入れると、無造作に背中を反し、再び通路を戻って行った。
「レン!」
まるで囚人だと思った。言葉どころか視線すら交わさない兄に、胸中が掻き毟られる。
何とかしなければ……。モリは広がり続ける得体の知れない虚無を、荒い呼吸と共に吐き出そうとした。
床に置かれた食事。擦り切れるほど読んだ馴染みの本。そして、冷めたスープの香りが鼻をかすめる。それは、幾度となく嗅いだ安らぎの香り。
マヤ……。
果てしなく時が過ぎた気がした。この場所さえも、彼方の忘れられた地に等しい。
込み上げるやるせない思い。芽生えた感情は止まることを知らず、どこまでも膨れて行く。
皿を持ち上げて初めて気付いた。銀盆の隅に光る白い宝石。モリはその白粒を摘み、繁々と眺めた。これが、マヤがここにいる証。
口に含んだそれは少し甘苦い、胸の暖かくなる魔薬だった。
夜露が落ちる頃、レンは隣にマヤを招いた。
「安心しろ、何もしない」
寝具の前で硬く身を強ばらせる様子に、苦笑混じりに呟いた。自意識過剰だと言わんばかりに、腕を掴んで引き寄せる。
「来い」
レンは何のつもりでこうしているのだろう。彼女は不快に眉を顰めると、隣に横たわった。
蝋燭の消えた闇夜で、二人は暫し無言だった。壁には窓から漏れる月明かりが映え、岸壁を打つ波音だけが聞こえる。
それに耳を澄ませているのだろうか。レンは身動ぎ一つせず、呼吸の音すら漏らさない。
彼女は続く沈黙に身を捩ると、背中を向けた。
「おれの側は嫌か」
男は漸く口を開いた。
「慣れていないのよ……隣に誰かがいるなんて」
どこか突き放した響きだった。レンは一瞥を向けると、息を深く吸って呟いた。
「男を知らない訳じゃあるまい」
的を射たそれに、彼女は溜め息を零した。確かに知らない訳じゃない。でも……。
「隣で眠るのを許したことはないわ」
自分でも不可解だった。母屋に他人を入れたことなど今までに一度もない。なぜ、身を許しても、それを受け入れないのか。
「おまえは誰にも <心> を許さない」
レンの口調には好奇の昂りがあった。
「なるほど、そういう女なのか。沼地の魔女」
彼は背中からマヤを抱きすくめた。まるで、子供が玩具を独り占めするように。
<心> を許さない?私は……。
「それじゃ眠れない」戯れを無下に押しのけることもできず、強く吐き出した。
「レン!」
しかし、彼は離さなかった。マヤの背中に隙間なく纏わりつき、静かな寝息をたて始めた。
心が割れる気がした。ますます混乱していく気持ち。レンを放っておけないのは、孤独を知っているから。自分に似ているから。ただそれだけなのだと、言い聞かせようとした。
──ぼくは、あなたが──
時おり響くその声。胸に一つ一つ楔を打っていく少年。
モリは眠っているのだろうか。この同じ月の光を見ているのだろうか。
マヤは両手で顔を覆い、背中に感じるレンの温もりの中で、啜り泣いた。
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