紅い月がのぼる塔/15.残酷な戯れ
「子猫がいたわ」
クロエはレンの胸に頭を寄せると、外れかけた赤石の耳飾りを取った。
「子猫……」
滑らかな肩を撫でる指先が、ぴくりと止まる。
「ええ。可愛らしい子猫」
顔を上げたクロエは、薄明かりの揺れる車内で男の前髪を掻き上げた。
「ずいぶん治癒したのね」瘡蓋《かさぶた》の浮く乾いた皮膚を淡々と目に映した。
「これが、沼地の魔女の力」漆黒の髪を掴んだ手に、わずかな力を込める。
「愉快だこと」
女の揺るぎない瞳が蛇のように収縮するのを、レンは訝しく思った。
「次の満月には……」紅い口端が不敵に上がる。
「 <魔女> を連れておいで」
淡泊に身を離すクロエを、男は震える眼で見つめた。そして、内から弾ける怒りの爆発をぶつけた。
「嫌だ!どうして、あの女を。君が気にかけるような相手じゃないと言っただろ。それは今だって変わらな……」
「おまえに意思などない。わたしが命令しているの」
眇めた瞳には、一筋の冷酷な光が宿っていた。だが、その威圧に身震いしつつも、男は反論を緩めなかった。
「おれ達の間に他者を入れるなんて……どうして急にそんなことを言い出したのか教えてくれ。この傷が治癒するからか。それが気に障るのなら、あの女をすぐにでも追い出す!」
苦痛とも取れる追いつめられた悲鳴に、女は肩を震わせて笑った。
「あの <子猫> は、わたしにずいぶん関心があるようね。興味を持たれるのは嫌いじゃない」
絶句した男の額には玉の汗が浮かんでいた。含みのある視線と声音に、 <子猫> の存在を思い巡らす。
マヤのことだ。彼女が近くに居たのだ。力なく項垂れていた一方で、耽々と一部始終を窺っていた。そのしたたかな魔女の思惑に気付かなかった自分に、唇を強く噛んだ。
「わたしに反抗するのなら、これからの事を考えなければね。わたしが欲しいのは従順な犬」
男を捨てるのは容易いことなのだろう。背けた横顔には、機微の欠片も感じられなかった。レンにとってそれは、死と同等の仕打ちだった。
「満月は……嫌だ……」
辛うじて目を伏せ、腹の底から搾り出した。
「どうして?」
細めた女の一瞥には、飼い犬に対する嗜虐的な揶揄が含まれていた。
「分かるだろ……意地悪しないでくれ……」
眉を顰めた頬が微かに赤らんだ。額の汗が鼻筋を伝って流れ落ちる。
「おまえが犬になるから」羞恥に歪んだ顎を持ち上げ、小刻みに揺れる端整な唇を見つめた。
「見せてやりましょうよ。おまえがどんなに従順で可愛いらしい犬か」
片手を下に滑らせ、男の下腹部に触れた。
「やめてくれ……」
レンは振り払うように身を引いた。そして、力なく睨みつけた。
「恥じているのね。おまえは本当に可愛いわ。おまえが恥辱と嫉妬に狂う姿が見たい。どうしたの、吠えなさい、もっと!」
俯いた頬に女の平手打ちが飛んだ。舞い上がる黒髪。跳ねた首筋に蛇腹の線を描き、妖艶な肌を際立たせた。
主人を睨み返す漆黒の瞳。その強い光彩には、憎しみと見紛う猛火が渦巻いていた。
クロエの口元に確かな笑みが浮かんだ。飼い犬の荒らぶる感情が、女の芯を揺さぶる。乱暴に伸しかかる男の腕を掴んでは、喜悦の雄叫びを上げた。
レンは無我夢中で胸元の衣服を引き裂いた。薔薇の刻印が花開き、濃い紅に発色する。眩暈のする麝香に誘われ、脈打つ花弁を噛んだ。
クロエは愉快に笑った。静まり返った荒地に車体の軋みが響く。次第にそれは強い吐息に変わり、放たれる熱と交わった。
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