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紅い月がのぼる塔/8.捕獲者

「おまえは召使いにでもなるつもりか」

 肘掛椅子に凭れたレンは、パンと野草を濾したスープを見つめて言った。

 窓には埃で朽ちた布がかかり、朝の眩しく澄んだ光も、ここでは雲間を彷徨うそれに似ていた。

「何とでもどうぞ。あなたの為だけじゃない。モリには血になる食事が必要よ」

 一瞥したマヤは、男の薄織の寝間着がはだけている事に赤面した。引き締まった褐色の胸元には、未だに愛の跡が刻まれている。

「私がいるのよ。服くらいまともに着て下さい」

 不快に目を逸らし、黙々と鉄枠のテーブルを調え始めた。

「今日から治療を始めるわ。その前に、薬《レメディ》を調合する為の材料が必要なの。色々質問するけど治療の為よ。だから、協力的になって欲しいの」

 男の視線がマヤを追う。小指の爪を軽く噛み、無言で様子を辿った。

 癖のある亜麻色の髪。それを束ねた彼女の背中は、胸の奥底に苦く重いしこりを残す。

「何を訊く気だ」

 予想以上に尖った声音だった。マヤは静かに振り返ると、部屋に踏み入った瞬間から密かに始めていた観察を深めた。レンの反応一つ一つに、治療の大きな手がかりが隠されているはず。培った感覚を最大限に研ぎ澄ました。

「その傷は何が原因なの。それを負ったのはいつ?」

 レンは目を細めた。両腕を組み、目前の治療者を凝視する。その無意識な遮断に、彼女は更に慎重になった。しかし、男は不敵に鼻を鳴らすと口端を引き上げて言った。

「八年前、火事に巻き込まれた。それだけだ」

 八年前……。マヤは驚きを隠せなかった。それほどの古傷が未だに広がっているのだ。まるで、別の生き物のように。

「あなた達はいつからここに。モリは <クロエ> に飼われていると言ったわ。それは本当なの」

 男はあからさまに顔をしかめた。直視した視線を一度外し、吐息と共に睨みつけた。

「なぜ、クロエなんだ。彼女は関係ない。八年前の火事が原因だと言っただろ」

「それだけじゃ、不十分なのよ」有無を言わさず畳みかけた。

「言ったはずよ。不本意でも私のやり方に従って貰うって。あなたの傷は、本来なら治癒して然るべきもの。それなのに、未だ治癒しないのは何故か。原因が必ずあるはずなの。心の奥に秘めたもののせいか、それとも、もっと深い業なのか。それをつき止め、根本的に治療するのが私のやり方よ」

「業だと?」レンは立ち上がった。彼女に背中を向け、曇ったガラス窓を見つめる。

「それを知ってどうする。おまえは……クロエが原因だと言いたいのか」

 その声は心臓を一突きにした。マヤですら怯み、禍々しさに鳥肌が立つのを感じた。

「あらゆる可能性があると言っているの。ここは、あまりにも未知だわ。あなたとモリの関係も……」

 奇妙に甲高い笑いが上がった。男は朽ちた布を両手で握り、捩り笑う身体を支えた。だが、次第に拳に力を込めると、振り向きざまに引きちぎった。

「分かったぞ。おまえの力が、 <怪奇> と言われる所以はこれか」

 その瞳は獰猛な獣のように炯々《けいけい》としていた。しかし、口には冷えた笑いを浮かべている。

「根こそぎ掘り返すつもりだな。鎮めた魂を無理やり起こし、それに魔薬を与える。例えそれが、苦しみから逃れる為、生きる為に鎮めたものでも。は、立派なやり方だ。おまえが治療するのは傷そのものじゃない。その者の <魂> だ」

「そうよ」マヤは初めて抉られた核心に奥歯を噛んだ。

「魂そのものが治癒しなければ、病は消えない。だから、あなたの鎮めたものを捕まえる。それを受け入れるなら、私に治せない病はない」

 レンは手にしていた布の断片を投げつけた。

「恐ろしい女だ」苦笑混じりに吐き捨て、意志のある栗色の瞳孔を見つめた。

「もし、嫌だと言ったら?」

「諦めることね」マヤはぞんざいに返した。

「私の元に来る者は、高名な治療者が匙を投げた者だけ。私の力にすがる者だけよ」

 二人は暫く互いの目の動きを探り合った。渦巻く感情を押し殺し、他者の存在を確認する。

 男は湧き上がる抵抗に眉間を寄せ、漸く不愉快に発した。

「おれたちは、この犬小屋で飼われた犬だ。八年前、クロエに <野良犬> として拾われて以来ここにいる。それは、路頭に迷ったおれにとって、何よりの救いだった。神が現れたと思った。しかし、彼女はおれたちに何も課さない。ただ『犬でいろ』と言う。だから、餌と引き替えに欲望を満たした。飼い犬として」

 マヤの視界が歪んだ。彼は何を言っているのだろう。

「甘んじたと言うのね、八年も。ここから出ることを、一度も考えなかったの……?」

 レンの思いが知りたかった。クロエを <悪魔> と言う弟と、 <神> と言う兄。

「出る?何の為に」男は怪訝に口を開いた。

「おれは主に飼われた犬だ」

 彼は囚われ人ではない。逃げ出すことすら考えなかったのだから。飼われる事にも疑問を持っていない。そういうものなのだろうか。いえ、少なくともモリは違う。それなら、彼女はレンに対してどんな手を使ったの……。

「あなたが治癒を望むのなら、クロエに会わせて」

 マヤは意を決して言った。彼がどんな反応を示すか、つぶさに観察しながら。

「何を馬鹿な……」

 レンの唇は苦笑に歪んでいた。しかし、その漆黒の目には、小さな火種が点いていた。

「本気よ。あなたの主人がどんな人なのか知りたいの」

──駄目だよ、クロエに会っちゃ──

 モリの忠告が点滅しようと、重要な鍵はここにあるのだと確信した。しかし、蒼ざめた半顔には、くすんだ怒りが落ちていた。

「調子にのるな!」

 マヤの肩を強く掴み、寝具の上に突き飛ばした。

「クロエは誰にも会わない。おれが、会わせない。汚れたその目で見るな。おまえのような女が、近寄っていい相手じゃない!」

 苦悶にも似た遠吠えだった。だが、マヤはシーツを握ると、半身を起こして言った。

「人間が人間を飼うなんて……八年も塔に閉じ込めて自尊心を奪っているのに、あなたは平気なのね」

 男の瞳に膜がかかった。マヤが口を開けば開くほど、こめかみに耐え難い痛みが走る。

「おまえに何が分かる。彼女はおれを愛している。愚弄することは許さない」

 吐き気すら感じる魂の振動に、関節が音を立てた。

「月に二度しか現れず、魂も肉体も、あなたが傷つくほど縛りつけて。それなのに、愛があるというの?」

 レンは無意識の内に飛びかかっていた。女を黙らせたい。目を塞ぎたい。その一心で。

「おまえに愛が分かるか!」寝具の上で馬乗りになっていた。

「おまえのような愛を知らない、孤児に!」

 マヤの平手打ちが飛んだ。その抵抗にとうとう自制をなくしたレンは、苛立ちまぎれに掴みかかった。

「この女……」マヤの上に覆い被さり、振り上げる両手を押さえつけた。

「おまえが知りたいのは、おれとクロエの関係か。おれ達の絆はただ一つ。それが知りたいのなら、今ここで、その目合《まぐわい》を教えてやる!」

 痛いほどの口づけが降った。深く食む唇に、唸りを上げて抵抗した。しかし、両手を頭上に釘づけにされ、身動き一つとれなくなった。

 濃厚に絡みつく舌。拒むほど歯列を這い、隙間から侵入してくる。追われ、攻め立てられ、呼吸すら奪われていく内に、脳天を突き抜ける痺れが走った。

 魂が舐め取られると感じた。互いの舌が熱を帯び、柔らかな弄りへと変わる。濃い靄に身体を包まれ、吐息を呑み込む夢幻にはまった。

 亜麻色の髪を梳く指先が、繊細にうなじを撫でた。震えと共に跳ねるたび、溢れる花の香りに獣脂が混ざる。

 彼女はこのままでは駄目だと思った。激しさの中に潜む、たおやかさ。自由を力ずくで奪い、優美に愛でる。天性とも言える愛撫の均衡に、心ごと溶けていく気がした。

「やめて!」しかし、閉じた腿を割り開かれた瞬間、男の身体を突き放した。

「卑怯よ。こんなこと、望んでない!」

 身体の芯が熱く疼いていた。悔しさに涙が滲み、何度も乱れた衣服を払った。

「おれの鎮めたものを……勝手に覗くことは許さない」

 男の険しい一瞥が返った。乱れた黒髪の下で、広がる傷跡がわずかに蠢く。

 マヤは羞恥と混乱の中に居た。その一方で、レンの魂の片鱗を垣間見た気がした。無慈悲に見下ろす眼を直視し、男の内面を見つめる。

「そうかしら」

 そして、一語一語を噛みしめ、揺るぎのない強さで言った。

「本当は、それを望んでいるんじゃないの?そうでなきゃ、ここに私を……攫ったりしない」

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