十七 意識の狭間で

 ボクは呻いていた。信じられない事にまだ生きている。体内に流れるのは氷河。ここは黄泉なのか……それとも……。
 手首に鋭い痛みが走った。枷が手首に食い込んでいるのが分かる。微かに腕を動かすと鎖の擦れる音がした。
 天井に吊られた両腕に今更ボクの重みがのしかかる。だけど、そんな事はもう、どうでも良かった。
 民に憎まれ、バージもいない今は、生きる意味などない……漆黒の水面を揺蕩う。このまま眠る様に死ねたら……。
 ただ、もう一度バージに会いたい……ボクの使命を最後まで見届けると言ったじゃないか。バージ……バージ……バー……ジ……。

「これで生きているとは化け物だな……」
 オプシディオの目元には隈が落ちていた。髪は振り乱れ、両掌をバージの胸に当てたまま、癒やしの光を放ち続けた。
「兄貴!てことは希望が見えてきたってことだよな」
 ラカンカは身を乗り出し、ベッドに横たわっているバージの顔を覗き見た。
「ああ……まだ予断を許さないが、恐ろしい生命力だ……」
 そう呟く癒し手の額から汗がこぼれ落ちた。
「わたしは未だに信じられない……」
椅子に浅く腰掛け、両手を握りしめていたニコレッタはふと憔悴した顔を上げた。
「ブロジュ様が何を考えているのか分からない。あの方は確実に翔平様を狙っていた。彼を殺めようとしていたのよ。それがどういう事か……」
 懇願する様な眼差しは何かの答えを待っているかの様だった。
「もし、そうだとしても、ブロジュ様を責めないでください……」
ラカンカは振り返り、床に視線を落とした。
「あの方は先代からこの世界の歴史を守る為だけに人生を賭けてきたお方です。ファリニス様がいらっしゃらない間も執政として世界を守ってきました。だから、手段を選んでいられなかったのだと思います。それに……身寄りのないバージノイド様を誰よりも可愛がっていたのはブロジュ様です。このような事態になった事を一番悔いていらっしゃいます。ですから、責めないであげてください」
 顔を上げ、痩せこけたニコレッタを見つめた。
「バージノイドがこうなったのも翔平様を狙ったからじゃない。翔平様を追い込んだのはわたし達の責任でもあるのよ!彼は一人で悩んでいた。それなのに誰も手を差し伸べなかった。その結果がこれだなんてわたしは納得できない!」
「分かってますよ……」ラカンカは眉を顰めて詰め寄った。
「ブロジュ様だって分かっています。でも、そうするしかなかったんです。脈々と受け継がれて来た歴史を変える事がどれだけの事か……あの方は分かっていたからです」
「ちょっと、あんたはどっちの味方よ!」
 椅子から立ち上がり、鼻づらを寄せた双方は互いに睨みあった。
「味方もなにも……私だって翔平様の事を大事に思っています!でも、現に解放された民の中には暴徒化した集団もいる。その事を誰よりも危惧していたのはブロジュ様です。一番弟子の私があの方を守らなかったら誰が守るんですか!」
「あんたは……!」
「騒ぐなら外でやってくれないか」
二人の間を断ち切る様に、オプシディオが呟いた。
「内輪で揉めてる場合じゃない。今はバージノイドの命を救う事が何よりも大事。それは同じだろう」
 二人はその言葉に押し黙った。再び椅子に腰かけ、深い溜め息をつく。
「そうよね……バージノイドが居てくれたら……」
 ニコレッタは唇を噛んで下を向いた。
 途端に何かに気づいたオプシディオは振り返った。そこには、壁に半身を隠してそっと立っているミオが居た。
「近くまでおいで」彼は優しく声を掛けた。そして、軽く眉を顰め、半信半疑に問うた。
「どうした。何か感じるのか」
 頷いたミオは誰の手を借りることもなく、ベッドへと歩み寄った。
「呼んでいる……」
 彼女は言った。
「翔平が、バージノイドを呼んでいる。彼もその声を聞いているの……」
「翔平様が!?」ニコレッタは立ち上がった。
「無事なのね……良かった……」
 しかし、すかさずミオは首を振った。
「でも、とても悲しい声。絶望、闇、孤独で押し潰されそう……」
 彼らは顔を見合わせ、ミオの心の囁きに耳を傾けた。
すると、オプシディオはいきなり唇に指を当て、全員の呼吸を押し止めた。
「……しょ……へ……」 
 微かな呻きが聞こえた。彼らはもう一度顔を見合わせ、一斉にバージを見た。
「バージノイド……?」
 全員が沈黙し、微かな呼吸と共に流れる音に耳を澄ました。
「しょう……へ……」
 バージの口元に全員が耳を寄せた。そして、確信を得た。
「兄さん、彼を呼んで!」ミオは両手でシーツを叩き、地団駄を踏んだ。
「みんな、彼を呼ぶのよ!黄泉から引き戻すの!」
 皆で頷いた。ベッドを取り囲む様に立ち、バージの名を呼び始める。
「バージノイド!こっちよ!」
「バージノイド様、こっちです!」
 様々な声が入り乱れ、バージを闇から引き摺り出す。オプシディオの両掌からは七色の光が漏れ、彼もまた、バージの名を呼んだ。
 すると、バージの瞼が微かに震えた。
「そうよ!バージノイド、こっち!」
 ミオは目を固く閉じ、心眼から叫びを上げた。
「しょう……へい……」
 とうとうバージは薄目を開けた。無数の呼びかけに応える様に。
「バージノイド!」
 彼はまず何を見たのだろう。誰を見ただろう……薄目の隙間から眼が揺れる。
「翔平……」
 彼ははっきりとそう言った。
「翔平が……私を、呼んでいる……」
 そう言って、身体を持ち上げようとした。
「動いちゃ駄目だ!」
 オプシディオが両肩を押さえつけた。
「……翔平が……呼んでいる……」
「分かっている!」癒し手の口から困惑とも言える叫びが漏れた。
「分かっているから今は動かないでくれ!」
 癒し手に続いて全員がバージの身体に手を添えた。
「お願い、今は休むのよ、バージノイド」ニコレッタは言った。
「じゃなきゃ、翔平様を助けられないじゃない!」
 無理に微笑む彼女の目尻には涙が滲んでいた。
 バージは無言でニコレッタを見つめた。次にオプシディオを見た。そうするのが精一杯という風に。
「頼む……」バージは呟いた。
「私を……動けるようにしてくれ……」
 その目に感情はなかった。無意識ともとれた。しかし、それに応えてオプシディオは頷いた。
「ああ。必ず動けるようにしてやる。約束する」
 バージは暫し癒し手を直視し、また眠るようにゆっくりと目を閉じた。
 全員が安堵の溜め息を漏らした。椅子に凭れる者、両手で顔を塞ぐ者、汗を拭う者。それぞれが緊迫した空気から抜け出し、口端に笑みを浮かべた。
「バージノイド様の生命力はどこからくるんだ……」
 ラカンカは思わず口走っていた。それにニコレッタはすかさず答えた。
「翔平様を思う気持ちよ」これが全ての答えとでも言わんばかりに、彼女は明確に口にした。
「翔平様はファリニス様よ。お二人は互いを求めあい、今でも深く繋がっているのよ」

 それから幾日もオプシディオの癒しは続いた。全身全霊をかけ、バージを蘇らせる為だけに時間を費やす。
 そうしたある日、ついに目覚めの時はやって来た。
 バージは目を開け、まず視界を覆ったオプシディオの顔を見据え、こう言った。
「感謝する……」
 癒し手は微笑みを浮かべて頷いた。それも束の間、バージは躊躇いもなく身を起こした。
「待ってくれ。まだ本調子じゃない」
 オプシディオはそう言ったが、それを振り払う様にバージは返した。
「もう十分だ。時間がない。悪いが肩を貸してくれ。ブロジュの元へ行く」
「ブロジュ様の……?」
 彼は言われるままにした。両足で床を踏みしめるまで、一歩一歩、石階段の硬さに負けない様になるまで。
 二人は廊下に辿り着いた。そこには、生還した同志が往来していたが、バージの姿を見て歓喜の悲鳴を上げた。
「バージノイド様!」
 彼らは迷わず駆け寄った。だが、館内が一大騒動になる前に、癒し手がそれを制した。
「ブロジュ様の元へ行く。みんな悪いが道を開けてくれ」
 彼らはブロジュの居る部屋へ視線を移した。そして、大人しく道を開け、バージとオプシディオの背中を心許なく見送った。
「ブロジュ、入るぞ」
 バージは扉の前で言った。返事はなかったが、重厚な木板が滞りなく開き、拒んでいる訳ではないのが分かる。
 部屋には背中を向けたブロジュが立っていた。彼は半開した鉄扉から外を眺め、一言こう言った。
「目を覚ましたか……」
 それでも振り返ろうとはしなかった。バージはゆっくりとオプシディオの腕を解き、自力で前へ歩み寄った。
「翔平を助けてやってくれないか」
 端的な言葉だった。しかし、それは瞬時にブロジュの眉間に不快な痺れを与え、呼吸を呑む時間を与えた。
「それは出来ぬ」ブロジュの喉から押し出された言葉。
「奴は我らを裏切った。いや、この新世界全てを裏切ったのだ。おまえが眠っている間に何が起きていたと思う。民の暴動だ。解放され、自暴自棄に陥った者が屋敷に自ら命を落としに行っている。その原因を作った翔平を助けろと、おまえは言うのか……」
「そうだ」
 バージの言葉に迷いはなかった。どんな事が起きようと翔平を信じる。その言葉通りの答えだった。
 ブロジュは暫し黙した。複雑に眼を揺らし、一度目を閉じた。しかし、直ぐに目を開けると、再び鋭い眼光を放った。
「翔平を救ってどうなると言うのだ」ブロジュは漸く振り返った。
「奴はもう、アンクーの手の内にいる。それも自ら進んで。そんな翔平を救う酬いはどこにあると言うのだ」
 バージの瞳はブロジュの怒りに反して静かになった。そして、噛み砕く様にこう言った。
「新しい世界を作る」
「なに……!?」
 ブロジュの顔が一瞬強張った。しかし、バージは臆する事なく続けた。
「支配や解放のない自由な世界を、私たちの手で作ろう」
 ブロジュは途端に大股で歩き出し、バージの横面に力一杯平手を食らわした。
「ブロジュ様!」
 よろけたバージを癒し手が支える。
「貴様は……貴様までわしを愚弄するのか!」老魔術師の唇は震え、尚も手を上げようとした。
「ブロジュ様、おやめください!彼はまだ病人です!」
 老魔術師を即座に羽交い締めにした癒し手だったが、その怒りまで鎮める事は不可能だった。
「どこまでわしを馬鹿にすれば気が済む!先代に仕え、脈々と受け継がれてきた一族の歴史を守り抜いて来たこのわしを!」
 それでも、バージは打たれた頬を向けたまま呟いた。
「一族の崩壊がファリニスの願いだとしたら……?」
「なに……!」
 バージは顔を上げた。ブロジュも動きを止め、二人は真っ向から見つめ合った。
「ファリニスが支配のない世の中を望んでいたとしたらどうする」
 ブロジュは無言だった。その目の奥に何を宿しているのかは分からない。
「聡明なあなたなら分かっていたはずだ。何故、彼女が翔平を選んだのか。彼が支配や解放と無縁の世界に生きる者だったからじゃないのか。彼なら、この世界の価値観を根底から覆し、新しい世界を生み出す。そう思ったからじゃないのか」
 老魔術師は目を細めた。二人の間に暫しの沈黙が流れる。
「ファリニスが同じことを言ったらあなたはどうする」漸くバージが口火を切った、
「恐らく耳を貸すだろう。新しい世界について共に考えるだろう。それくらいの信頼はあったはずだ。忘れないでくれ。翔平はファリニスだ。姿は違っても、彼の中にファリニスが生きている。これは彼女の願いであり、一族の末裔が選択した道だ」
 ブロジュは初めて視線を落とした。彼自身を雁字搦めにしてきた鎖がはらりと落ちたかの様に。
「翔平が私を呼んでいる。彼を救うにはブロジュの力が必要なんだ。頼む、力を貸してくれ」
 バージは父親に縋るように、彼の両腕を握り締めた。
「一族の願い……」
 ブロジュは呟いた。バージの両手が離れ、再び窓の外を見つめながら、誰に告げることもなく囁いた。
「新しい、世界か……」

 誰かがボクに触れた。
やめてくれ……もう少し幸せな夢を見させてくれ……。
いつになれば……ボクは、朽ち果てる……。
 枯草の香りがする。
 夢の途中だろうか……。
 枯れ草の香りが……強い……。

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なかはら真斗
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