プロローグ/レージフリーク
オフィス街の一角にある近代建築物の前に一台のタクシーが止まった。
陽の落ちたここは閑散としていて、暖色の街頭が灯ること以外は、窓ガラスから漏れる煌々とした明かりが歩道を照らしていた。
三条響《さんじょうひびき》。彼は薄暗い車中でも、サングラスを外さなかった。
「釣りはいらね」
そう端的に言い放ち、ドアが開くと同時に滑り降りた。持て余すほどの長い四肢と、片手で収まりそうな頭部とのバランスは、世の貴重な財産ともいうべき芸術性を保っていた。
建物の一階は、洗練されたギャラリーになっていた。
──河合拓也写真展~セクシュアリティーから観る新たな自分~──
彼は大きく掲げられた看板を一瞥すると、思わず笑みを浮かべた。照明の消えた石畳を小走りに進み、漸くサングラスを外した。
褐色の肌が映える革ジャケット。神々の彫刻と見紛う端整な小鼻と、艶のある眼力。誰もがその野性的な視線に心を奪われ、人間離れした姿態に釘付けになった。
入口には閉館を知らせる看板と、祝いの花輪が所狭しと並んでいた。数々の著名人の名が連なり、それだけでも一見の価値はある。その中のひときわ艶やかな花輪には、響の名が記されていた。
受付のカウンター前には、細いセルフレームの眼鏡が印象的な、物静かな顔立ちの青年が立っていた。響はそれを視界に捉えると、嬉々として叫んだ。
「拓也!」
青年は途端に緩やかな微笑みに包まれた。
「まさか来てくれるなんて思わなかった。嬉しいよ」
二人は近寄るなり、互いの拳をぶつけ合った。
「あたりまえだろ、おまえの初の個展だ。這ってでも行くぜ。遅くなって悪いな」
河合拓也は響の飾り気のない無邪気な笑顔を見つめた。あの頃と何も変わってはいない。唯一変化したことと言えば、野性美に磨きがかったくらいだ。
「いいんだ、忙しいんだろ?昨日の番組を見たよ。ミラノから切望される日本人モデル三条響に密着。すごいじゃないか」
響は笑った。そして複雑に眉を顰め、息混じりに吐き出した。
「その話は後だ。それより早く見せろよ。名だたるお堅い女優たちが、おまえの前ではヌードになるって噂だぜ。どんな技を使ってんだ?」
展示室に一歩踏み込むと、大げさに悲鳴を上げた。
「すげえ!」
そこは拓也の世界だった。四方の壁を埋め尽くす女性の裸身。視線は一様に同じ場所にあり、挑戦的な眼差しを向けている。それら無数の目が、一斉に響を襲った。
彼女たちは皆、熱くなるほどの色香を醸していた。シーツの上を泳ぐ者。肉体を惜しげもなく晒す者。恥じらいで布を纏う者。その誰もが際どく美的に撮られ、解放された己の一部に陶酔していた。
響は呆然と立ち竦む一方で、胸に込み上げる激しい波に上気した。学生の頃からこだわり続けた拓也の世界観が、ここに凝縮されている。その震えるほどの歓喜に、暫し絶句した。
しかし、次には怪しくほくそ笑み、意味深長に振り返った。
「おまえこれ、やってるだろ。とくにあの女優の目!どうみたって、やった後の顔だぜ」
響は一枚の写真を指差しながら、いやらしく笑った。
これが、世界のモデルとは。拓也は半ば呆れながら睨み返した。
「やったとか、そんな低俗な言い方はやめてくれるかな」
憤慨しつつも、好奇に目を光らせる友に釣られて笑う。
「でもまあ、たまにはそんなことも……あるよ」
二人は顔を見合わせて笑った。
「おい、まじかよ。人畜無害な顔して羨ましいぜ。おれなんかより、おまえみたいなインテリタイプが一番危ないっての。その伊達眼鏡、ファインダー覗く時だけ外すだろ。あれ反則だぜ。誰かが言ってたよな、その仕草が堪んないんだって」
喋らなければ良い男なのに。そう感じながら表情豊かに語る響を、拓也は微笑ましく見つめた。
こうすることで、隔てた時はすぐに埋まる。自分たちの間には、立派な肩書きなど無用の長物だと感じた。
「たまにのめり込む女優さんがいるんだ。ファインダー越しがやけに興奮するみたいで。そうなると恥をかかせる訳にもいかないし。これも芸術の為だ。言っておくけど、俺から誘ったことはない」
「何が芸術だよ」
豪快に笑う響の胸元で、銀のネックレスが光を集めた。それに、ふと目を奪われた拓也は、彼のシャツが深く開いていることに気付いた。そこから鍛えられた胸板と、褐色の艶やかな肌が覗く。
あろうことか、目を皿にしていた。浮き上がる鎖骨から目が離せない。拓也は自分に何が起きたか分からず、動悸が打ち始めた胸を片手で押さえた。
「どうした」
響はいきなり塞ぎこんだ友の腕を躊躇いもなく掴み、俯いた顔を覗き込んだ。同時に爽やかなフレグランスの香りが舞い、それが拓也の鼻先をくすぐった。
次には下腹部が反応を始めた。仰天した拓也は悲鳴を抑え、さりげなく踵を返した。
「あ、い、いや、あの、大丈夫。客の相手で、ちょっと疲れたかな……」
飛び出しそうな心臓を飲み下し、次のエリアへと歩き出した。
──嘘、最低だ……。
込み上げる自己嫌悪と、抑えられない疼きに酷く混乱した。
「こ、こっちは男だらけだ」
全力で気を取り直し、首を捻る友に微笑んでみせた。
「男?」
目を丸くした響は、女性以上に艶やかな男たちに狼狽した。妖艶な視線と、しなやかな筋肉美の追求。一枚一枚に魂の込められたそれに、不思議な感覚を抱いた。
「ずいぶん綺麗に撮ってんなぁ。あれ、おまえって、そっちの気もあったっけ?」
「ない!」
飄々とした問いかけに、拓也は自分でも驚くほど強く否定していた。
「ないって!」
そう断言したものの、数多の優れた男たちによって、美に垣根はないのだと知った。まったく欲情をしなかったと言えば嘘になる。おまけに、響はその中でも群を抜いた存在なのだと気付いた。それを意識したのは、昨夜の番組を見ている最中だった。
「なんでもいいけどな。おれは人類愛だからさ、男も女も関係ねぇ」
さらりと受け流し、写真を丁寧に眺め始めた。こうなると暫くは口を挟めない。日頃がどんなにいい加減でも、モデルに対する研究心は尊敬に値する。拓也はその背中を見つめ、毒気を抜かれた自分に放心した。
程なくして、そこに思わぬ声が上がった。
「これは、誰だ」
響はある一枚の写真を舐めるように見つめた。それは光を絞った、一際素朴な写真だった。
森深い緩やかな滝を背景に、背中を向けて川に浸かっている青年。濡れそぼつ素肌は透明感に溢れ、肩越しに振り向く横顔は女性のように淑やかだ。消え入りそうな視線は彼方を見つめ、血色の良い紅い唇が凄艶だった。
「高階麗次《たかしなれいじ》だよ。インディーズで頂点を行くバンドのボーカリストだ。彼に目をつけるなんて、さすがだな」
響の関心がよそに向いたことに内心胸を撫で下ろした。
彼の意識は被写体にのみ注がれていた。暫く沈黙したまま感慨深く見つめ、そして、躊躇いがちに呟いた。
「なんかこいつ……いやらしい」
「いやらしいって、綺麗な子だったよ。実物の方がもっと雰囲気があっていいかな」
拓也は撮影した時のことを思った。そこに存在するだけで、田舎の森も幻想的な空間に変わる。できるだけ無駄を削ぎ、内から溢れ出す輝きだけを伝えたかった。
「これだけ目立ってんなら、メジャーでもいけそうだけどな」
響の口調は淡々としていた。彼が何を感じながら発しているのか、拓也は疑問に思った。
「そうなんだ。だけど、そこが麗次のこだわりだ。彼らのライブを見れば納得するよ。確かにメジャーで手を加えられるのはもったいない。海外でも注目されてるみたいだし」
「へえ……高階麗次か。女みてぇ」
投げやりとも取れる声音だった。
「見かけはそうだけど、意志のしっかりした良い子だったよ。珍しいな。響がそんなことを言うなんて」
彼はむやみに他人を貶したりしない。それだけに、不機嫌に食い下がる様子に違和感をおぼえた。
「何てバンドなんだよ」
無愛想に拍車がかかる。そんな彼に、拓也は眉を寄せて言った。
「 <エターナル・ブラック> だったかな。いったい、どうしたんだ?」
写真に貼りつき、微動もしない響。こんな奇妙な姿を見たことは今までになかった。しかし、彼は突然振り返ると、思いつめたように叫んだ。
「こいつに会わせろ!」
「は?」
すげないのか、懇願しているのか、赤く歪んだ顔は怒りともとれる。
「そうだな。ライブのスチール写真を撮りに行く予定なんだ。その時に一緒に……響?」
彼は唇を噛んだ。疑問符を背負った拓也を穴が開くほど見つめ、瞳だけで語ろうとする。
だが、困惑した友の口が新たに開こうとした時、とうとう意を決して言った。
「やべえ……惚れた」
サポートをしていただけると嬉しいです。サポートしていただいた資金は資料集めや執筆活動資金にさせていただきます。よろしくお願い申し上げます。