八 別れ

「翔平、しっかりしろ!」
 半ば呆然としていたボクを正気に戻したのは柳瀬の声だった。歯を食いしばり、拳を握ることで、小刻みに揺れる震えを止めた。柳瀬を守らなければ。枷を外さなければ。憤怒と身体の底から逆流する血潮とで、証がふつふつと熱を持ち始めた。
「うるせえ、餓鬼だ」アンクーは柳瀬に向かって吐き捨てた。
「残念ながら貴様は用済みだ。大人しくしてもらう」
 奴は二頭の黒豹に合図を送った。それらは柳瀬を取り囲み、今にも飛び掛からんばかりに威嚇した。
「やめろ!柳瀬には手を出すな!」ボクの両腕を複数の異形のモノが掴んだ。岩壁へと貼り付けにし、身動き一つ取れなくした。
「おまえの望みはなんだ、これ以上、何が目的なんだ!」
 必死だった。柳瀬の為ならなんだってやる。例え、奴の手中で翻弄されようと。
 しかし、奴がボクに歩み寄って言った言葉は、絶望の淵に立たされるもの、そのものだった。
「貴様の真の名を教えろ。オレの望みは貴様を支配することだけだ」
 腕を組み、顔を寄せて来るアンクーの瞳には、勝利の光が宿っていた。
「知らない……」ボクは震える声で返した。
「本当に知らないんだ……」
 奴は目を細めた。そして、一つため息をつき、仕方なくと言わんばかりに口端を上げた。
「それなら思い出させてやるまで」
 黒豹に合図を送る。すると、奴らは柳瀬を壁際に追い詰め、唸り声を放った。
「やめろ!」
 両腕を拘束されたまま、激しく身を捩った。しかし、身体が思うように動かない。そんなボクに柳瀬は言った。
「屈服するな、翔平。何があってもこいつの思い通りになるな!」
 一頭の黒豹が躍り出し、柳瀬の腕に噛みついた。あいつの悲鳴が上がる。
「柳瀬!」ボクはアンクーに懇願するように言った。
「本当に知らなんだ。お願いだからあいつに手を出さないでくれ。他にできることならなんだってやる。だから、柳瀬だけは助けてくれ!」
「駄目だ、よせ!」
 腕を押さえながら訴えかける柳瀬に対して、アンクーは黒豹を払いつかつかと歩み寄って行った。
「ピーピーうるせえ」
「やめてくれ!」
 ボクの叫びを尻目に、奴は柳瀬に平手打ちを食らわせた。それでも柳瀬は顔を上げて不敵な笑みを浮かべて言った。
「おまえがやれるのはそれだけかよ……」
 更に平手打ちが飛んだ。とうとう地面に倒れ込んだ柳瀬の背中を押さえつけ、無情にもあいつの上に伸し掛かった。
「強気でいられるのもここまでだ。貴様のプライドも何もかもズタズタにしてやる。絶望を味わうがいい」
 そう言って、奴はあいつのシャツを引きちぎった。
「何をする気だ……アンクーやめてくれ……柳瀬に手を出すな!」
 途端に異形のモノに首根っこを押さえつけられた。アンクーは何だってやる。絶対に阻まなければ。だけど、どんなに暴れようと、奴らは渾身の力でボクを動かさない気だった。
「見ていろ。貴様が真の名を思い出さない限り、こいつがどんな目に合うか、目を開いて見ているんだな!」
 奴は柳瀬のボトムに手を掛け、乱暴に下へと引き摺り下ろした。
「畜生!」柳瀬は叫んだ。その上に跨るアンクー。ボクは只管もがき、怒りの咆哮を上げた。
「俺を見るな!」
 あいつはボクの目を見て言った。本気だった。それが、あいつの覚悟と、最後のプライドだった。
ボクは目を閉じた。何もできない悔しさに天をも貫く叫びを上げた。柳瀬の悲鳴が聞こえる。苦悶の声が聞こえる。
「やめてくれー!」
ファリニス……ボクに力を!──

──母さんが離婚したんだ。
 生徒会の帰りに立ち寄った教室には、ただ一人、あいつがいた。机に腰掛け、夕日を眺めている背中は何だか心許なかった。
ボクはそっと近寄り、あいつの横顔を見た。今まで見たことのないような、ボクの知らない柳瀬がそこにいた。
「母さん、男を見る目がなくって。いつも妙な奴とくっついちゃ離れての繰り返し。優しすぎんだよ。俺が値踏みしてやるって言ってんのに『大丈夫』だってきかねえし。馬鹿だよな。ま、母さんの人生だし、好きにすればいいんだけど……」
 そう言って、寂し気に笑った。

 柳瀬……ボクの親友……心を開いたのはおまえだけだった。それなのに……。

──おまえの名前は父さんがつけたんだ。
 子供の頃、父が話して聞かせてくれた言葉。忘れていた遠い昔が蘇る。
「本当は『翔』という名前にしようと決めてたんだ。空高く自由に駆け回る鳥のように。平和を求める鳥のように。とにかくスケールのでっかい男になって欲しくてな。でも、母さんが『お父さんの名前の一文字を入れよう』と言い出して。それで『翔平』って名前になったんだ」
 
どうして今ここで父さんのことを……ボクの名前の由来は……ボクの名前。そうだ、ボクの、真の名は……。
ファリニスが教えようとしている。真の名は『かける』だと。平和を求める鳥。新世界に平和をもたらす鳥。それは、一族とこの世界の再生を意味する。
それなら、アンクーの真の名は。もう一人の真の名を呼ぶ者の名は……再生と相反するもの。分かった……。
「破壊……」ボクは目を開けた。証がどくどくと脈打ち、瞬き始めた。
「おまえの真の名は、『破壊』」
 突然、奴は死人のように蒼ざめ、初めて見せる失意の目を向けた。そして、一つ口を開くと、柳瀬の首を、勢いよく捩じり折った。
 どん、という音を立て、あいつの頭は地面にぶつかった。不自然な方向に捩じれたまま……。
「うわああああああああ!」
 ボクは叫んでいた。瞬く間に証が破裂した。そう感じた。血が逆流し、何も見えない。目の前に横たわっている者が誰なのかも。毛穴という毛穴から閃光を放ち、ボクを捕えていた異形のモノが吹き飛んだ。狂乱するほど叫び続けた。足首の枷が粉々に砕け、やっと自由を手にした。
 アンクーが術を放ったが、ボクの術でそれを跳ね返した。それは、岩穴全体に広がり、猛烈な風が吹き荒んだ。
「あいつを殺せ!」
 暴風の中でアンクーは身を翻した。前方を異形のモノ達が炯々とした目で塞ぐ。その隙に奴は消えた。
「イス!」
 右手を掲げ、術を唱えた。それは天を貫き、岩山の天辺を破壊した。岩盤が降り注ぐ。それでも術をやめなかった。ボクはひと際鋭利な黒曜石の破片を拾い、魔剣を手にした時の感覚を手の平に宿した。途端に、それは七色に光った。
異形のモノが迫りくる。鎌風がボクの胸を斜めに引き裂いたが、その破片で奴らの身体を分断した。
 ボクの魔剣だ。絶対に、奴らを逃しはしない──。
 ボクはボクでなくなっていた。どんなに岩壁が崩れようと、襲い来る敵に向けて魔剣を振りかざした。右を、左を、後ろを。奴らを追うように走り、纏めて水平に引き裂いた。腕や腿に鎌風が通り抜ける。でも、痛みなんか感じない。柳瀬に比べたら……。
 もう死んでもいいと思った。柳瀬と一緒に。あいつの元ににじり寄り、枷を外して、ボロボロになった身体を抱き締めた。
「柳瀬……」
 術で岩が崩壊していく。その中で次々と異形のモノが集結した。奴らに取り囲まれる中、あいつの首筋に顔を埋め、血が滲むほど唇を噛んだ。
 すると、彼方から声が聞こえた。みしみしと岩壁が崩れる音に紛れて、それは確実に聞こえた。
「翔平、闘え!」
 顔を上げた。聞き覚えのある声。間違いない、バージの声だ。バージが生きて戻って来た。
立ち上がった。妖霊の群れの向こうに彼の姿が見えた。彼もまた、大剣を唸らせながら、大量の異形のモノを相手にしていた。それはボクに信じられない程の力を与え、闘わなければという意思を蘇らせた。
ボクの知らない術をボクが唱え、取り囲んだ妖霊を弾き飛ばした。意識が飛ぶ。ファリニスとボクが一体となって、もみくちゃになるほどの妖霊を相手にした。黒曜石の魔剣が舞う。もんどり打つ黒豹二頭を一突きにし、柳瀬への復讐を果たした。今のボクに慈悲はない。仲間を失った悲しみ。柳瀬を失った悲しみ。その全てが、術に込められていた。闘え、翔平。もっとだ……!
「脱出するぞ!岩山が崩れる!」
 バージは息を切らして駆け寄ってきた。全身に傷を負い、それでもなお、雹のように降る岩石からボクを守った。
 柳瀬を担いだ彼は、一瞬ボクの目を見た。しかし、すぐに次々と襲いかかる妖霊を切り刻み、先へと進んだ。
 バージの後に続いた。背後はボクが守る。二人共、傷だらけになりながら出口へと確実に近づいて行った。
 ようやく脱出した時には、辺りは一層、濃い霧に包まれていた。岩山が無残に崩壊していく。それと共に後を追う妖霊が消え、ボク達は岩道の前で立ち止まった。
 柳瀬を静かに横たえたバージは、切れ端となったマントをその上に掛けた。その横に跪いたボクは、微かな陽の下で、予想以上に傷ついた親友を見た。あいつがどんなに虚勢を張っていたか。ボクを励まそうとしていたか。笑顔や笑いを思い出し、呼吸ができないほど胸の奥が締めつけられた。
「もて男が台無し……」
 あいつの顔や身体についた血をマントで拭った。また息を吹き返すんじゃないかと、乱れた髪も整えてやった。
 それでも、柳瀬一馬は、いくら待っても何も言わなかった。
「ごめん……柳瀬……」
 口にして知った。あいつは戻らない。あの笑顔を二度と見ることはできない。もう、馬鹿話も、日暮れまで語り合うこともできない。ボクは、また独りぼっちだ……。
「柳瀬……許して……ごめん、ごめんね……」
──泣くなよ。
 柳瀬の声が聞こえた気がした。
──ずっと、傍にいるって。
「許して……ごめん、こんな目にあわせて。何もできなくて……」いつの間にか意識の波の中を揺蕩っていた。
「ボクのせいで。ボクが全部……」
 バージが肩に触れた。
「触るな!」振り返って彼を見た。
「屋敷が墜ちた。全部ボクのせいだ!」
 バージの灰色の瞳が揺れた。絶句した彼を見たのは初めてだった。だからこそ、何もかもがもう、嫌で堪らなかった。
「柳瀬が死んだ。沢山の同士が死んだ。全部ボクのせいなんだよ!ボクが未熟だからだ!こんなボクに何を求めているの?無理なんだ。ボクは、真の名を呼ぶ者になんてなれないんだよ!」
「おまえのせいじゃない。まだ道はある」
 バージはそう言ってボクの腕を掴んだ。
「離せって言ってるだろ!」彼の手を振り解いた。
「もう、大事な人がいなくなるのは耐えられない。屋敷が墜ちてどうしていいかも分からない……」
 制御できなかった。バージの言葉ですら耳に入らない。ただ、元の世界に戻りたい。この場から去りたい。そのことばかりが頭をよぎった。
「どうしてボクなんだ……どうして柳瀬が死ななきゃならないんだよ……ボクは、真の名を呼ぶ者にはならない!そんな器じゃない!」
 すると突然、身体が前にのめった。全身から力が抜け、操り人形のように不自然な倒れ方をしてしまった。
「どうした……!」
 バージが両肩を持って支える。でも、ボクの意識はボクの物ではなくなっていた。夢の中を彷徨っているような現実味のない世界に放り込まれ、見えない何かが、ボクを支配して行った。
 灰色の目がボクを見ている。それは分かった。その瞳は困惑で揺れ、次には大きく見開かれた。何を見ているのだろう。ボク自身を通り抜け、ボクの中の別のモノを見ているような気がする。バージがこんな目をするなんて知らなかった。こんな風に、愛おしい者を見る目をするなんて……。
「ファリニス、君なのか……」
 バージは言った。ボクを見つめ、ファリニスの名を口にする。しかし、その名を口にした途端、彼は目を細め、苦しそうに視線を落とした。沈黙が流れる。それは苦悶にも似て、何かと葛藤しているように見えた。
 ようやく顔を上げた時、彼は言った。
「翔平を解放してやってくれないか……」
 ボクは衝撃を受けた。正確には、ボクの中のファリニスだ。バージの瞳には苦痛と静けさが同居し、覚悟を持ってその言葉を発したのが分かった。
「彼は十分、頑張った。失ったものも多い。だから、もう、許してやってくれ」
 心の内が揺さぶられる。ファリニスが動揺している。しかし、鉄の心で、彼女はこう言った。
「あなたがそんなことを言うとは思いませんでした」ボクは溢れそうになる涙を堪えた。
「一族の再生は全てこの世界に安らぎをもたらす為。それを承知で今まで多くのことを積み重ねてきました」
バージの瞳が哀しみを帯びた。
「翔平には私と同じ十八年の人生を与えました。平和と安らぎをもって。それを奪ったと、あなたはそう言いたいのですか」
 彼は口端を微かに上げ、微かに首を横に振った。
「違う。翔平は君だ。それは分かっている。君がこの世界を去った瞬間から歯車は回り続けていた。全て、当主である君の作戦だ。ファリニス」
「それならどうして……」彼女はバージの腕に触れた。だが、彼の瞳に浮かぶ複雑な揺らぎを見た途端、その手を離した。そして、こう言った。
「翔平は離しません。彼はこの世界の全て。真の名を呼ぶ者です」
 バージの目が曇り、そして何かを悟ったように全開した。
──かける、あなたを支配します。
 ボクの精神の奥底でそれは響いた。途端に身体が跳ね上がり、落雷に打たれた時のように強い痺れが走った。
「大丈夫か!」
 バージはボクを揺さぶった。ボクは天を仰ぎ、内からあふれ出す真の名を羅列した。
「フェイフュー、ライゾ、マンナス、ジェラ、ミーニス、グラナダ、シワズ、カレイソ、サントス、キルミナ……」
 霧に覆われた空が見える。静寂に響き渡るボクの声が聞こえる。両腕には、バージの手の平の感覚がした。
 崩れた岩山。森閑とした幻惑の森。そして、崩れかけた岩道。それらを包み込むように、妖霊の真の名が旋回した。
 そうだ。とうとうボクは、ファリニスに、ボク自身に、支配された……。

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