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紅い月がのぼる塔/11.秘密

 モリは塔を囲む石のコンコースを歩いていた。潮風に朽ちた石の壁。その岩肌に触れるたび、ごつごつとした砂粒が崩れ落ちる。

 彼はそこを無遠慮に掘るのが好きだった。指先でなめした不自然な穴を確認しては、石畳を突き破る雑草を蹴散らした。潮騒も息を潜め、不規則な足音だけが鳴り響く。連続したアーチ状の橋桁を見上げては、わずかな隙間から零れる空の恵みを凝視した。

 広間ではレンの治療が始まった。幾分協力的に見えた今日の兄に、モリはささやかな希望を抱いた。

 自然に漏れる鼻歌。岸壁に続く石階段を跳ね下りる。しかし、その途中で勢い良く立ち止まった。

 崩れかけた石階段の下から、一人の小男が見上げていた。つばのある帽子を浅く被り、まるで彼が来ることを知っていたかのように、ガラス玉に似た無機質な視線で迎えた。

 モリはたちまち凍えた。ゆとりある羽織りの下には、不自然に折れた背中。生気の見えないこの男に、彼方の記憶が蘇った。

 男はおもむろに手招きをした。無表情に手首を振り、視線を脇へと滑らせる。

 モリは恐る恐るそれに従い、足を慎重に下ろした。記憶に間違いがなければ……。

 途端に両足が竦み上がった。岩壁の死角には、清々しい大気を凌駕する、黒光りの小さな馬車が止まっていた。

 萎縮する胸に反して膨れ上がる鼓動。こめかみに滲む汗に目尻が震えた。

 更に促す男の指先。拒絶する気持ちに縄を張り、開かれた扉を見つめた。

「 <あの日> 以来ね、モリ」

低く掠れたまろやかな声音が響いた。身体の全ての感覚が警鐘を鳴らす。その特徴ある濃厚な響きを、忘れるはずはなかった。

──クロエ──

モリは内臓が持ち上がるのを感じた。この八年に渡り、クロエが変則で現れることなど一度もない。何が目的でここに来たのか。流れ出す支流に、そっと足を浸した。

「おいで、モリ」

紅い首輪に鎖が繋がれた気がした。力任せに引かれ、思わず身体が前にのめる。

顔を合わせることに躊躇いがない訳じゃない。しかし、隠された女の意図を知る必要があった。

暗い車体の中にはプラチナの髪を後ろで編んだ、凡そ清楚な貴婦人が座っていた。

クロエ……?

そう疑問に思うほど、襟高の白いドレスを淑やかに着こなした、気高い姿態だった。だが、窓には相対する闇色の布がかかり、まるでそこだけが先の見えない洞穴……。

「大きくなったわね」淡々と一瞥を投げたクロエは、無言で立ち竦む少年に言った。

「 <あの日> 以来、おまえは一度も姿を現さなかった」

覚えのある麝香の香り。無意識に口端が戦慄き、粘膜を通じて血管の末端までが振動した。

「いくつになったの」

抑揚のない平坦な問いが、偽りの純潔に冷たさを加える。迫り来る苛立ちに似た不安感に、奥歯をきつく噛んだ。

「じ、十五……」

彼女の目を正視できない。見てしまったら何かが崩れる。モリは説明のつかない予感に俯いた。

「それにしてはずいぶん発育が悪いこと。おまえが、そうやってみすぼらしくしているのは何の為。レンに対する負い目。それとも、私に対する牽制……」

クロエの視線が動いた。俯くモリの額を見つめ、そこに太い楔を穿つ。

「こ、ここに居ることを……レンは、知っているの……?」

額に突き刺さる痛い視線を感じた。少年は震える指先を握り、切れ切れに吐き出した。噴き出す汗が流れ落ちる。

「レン……」女は初めて耳にしたと言わんばかりに呟いた。

「飼い犬に告げる必要がどこにある。会う気など毛頭ない」

苦笑混じりに返る言葉に、モリはとうとう視線を上げた。

「どうして!」前髪の隙間から見え隠れする碧眼を、女は興味深く見つめた。

「兄さんはあんたが恋しくて気が変になりそうなのに。ここまで来てどうして会おうとしないんだよ!」

女は手の甲を口元にあてがい、高らかに笑った。追いつめられた飼い犬の遠吠え。それが愉快なのだと。

「私に対してはお利口だこと」

伏し目がちに睨むモリの唇は、紅く充血していた。

「思った通り、おまえには首輪が必要」

クロエの手が伸びた。彼に身を離す余裕も与えず、大きすぎる紅い輪を握り締めた。そして、表情一つ変えずに引き寄せた。

モリの身体は面白いように崩れた。車体の中に雪崩込み、上へと引き摺られる。女のものとは思えない力に、絞られた首から唸りが漏れた。為す術もなく引き寄せられ、その膝に倒れ込んだ。

「おまえは <沼地の魔女> を攫った。モリ、私の飼い犬。ここから離れて生きていけるとでも……?」

乱暴に首輪を掴まれたまま、その胸元に寄せられた。もがけども更に食い込み、開けた口から惨めな喘ぎが零れた。

「レンは私から離れられない。そう躾たのだから。おまえも躾なければね。放し飼いにしたのは間違いだった。まさか、おまえが……」

クロエは片手でモリの前髪を掻き上げた。苦痛に歪む碧眼。小刻みに漏れる喘ぎ。赤く染まった皮膚を眺め、冷やかに薄ら笑った。

「綺麗よ、モリ。紅い首輪が良く似合う。おまえにも教えてあげる。究極の愛を。全ての鎧を剥ぎ取り、身を委ねる喜びを」

「いやだ……」モリは咽喉の奥から絞り出した。

「ぼくは騙されない……そんなの、愛なんかじゃない!」

目尻から零れる一筋の涙が、頬を伝って滑り落ちた。

「可愛いことを言うのね。おまえと私の秘密を忘れたの?」

首輪から手を滑らし、かわりに震える両腕を掴んだ。苦し紛れに咳き込むその顔は、蒼と赤の斑模様を浮かべている。

「 <あの時> のおまえは肌の温もりを欲しがった。安らぎと快楽に身を委ね、悦びに震えながら……私の中に熱い精を放った。忘れた訳じゃないでしょう。おまえは、愛が欲しかった」

「悦んでなんかいない!」覆い被さる視線に抵抗した。

「あれは、無理やり……」

忌むべき記憶。認めたくない、永遠の秘密。

「それならレンに言ってごらん。私達の秘密を。犯されたのだと言えばいい。そこに後ろめたい気持ちがないのなら、おまえの兄に縋りなさい!」

モリはつんざく怒号を吐きながら、力任せに払いのけた。車体から転がり落ちては逃げ出し、道を塞ぐ御者を突き飛ばした。

このことが言いたかったのだろうか。ここからは逃げられないのだと。

レンに告げるはずがないと知るクロエの笑いが、背後に迫った。

麝香のきつい香りが付き纏っていた。モリは石階段を駆け上り、追い風で身体を洗った。

海の見渡せる高台。近づく空。そこへ向けて両手を広げ、腹の底から咆哮した。

青かった。

どこまでも雲一つない、澱みのない青。

空を仰ぎ、乾いて行く視界を見つめたまま、そこに立ちつくした。

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