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紅い月がのぼる塔/18.裏切り

 瞬く間に炎に囲まれていた。

 しかし、モリは灰の花弁を好奇の目で見つめ、熱に身を委ねた。

「モリ、逃げろ!」

 レンは祭壇上に駆け上がると、その腕を引いた。

「聖遺物が……」

「そんな場合か!」

 乾いた木壁を餌に威力を増して行く炎。悪魔の口から立ち上る靄のように、黒煙が噴き出し始めた。

 レンは棒立ちになった弟を小脇に抱えた。聖堂の奥は火の海と化し、モリの居た場所も火の粉に包まれた。逃げ道はただ一つ。正面入口のみ。しかし、辺りは沁みる煙に包まれ、前後不覚となった。

 二人は大粒の涙を垂らしながら、身を低く折り曲げた。木皮の弾ける音に混じり、嵐に似た風の唸りが響く。

 それは、炎の雄たけびだった。さながら死を宣告する妖魔のように辺りを旋回した。

 轟音を上げて崩れたのは祭壇の支柱だった。 レンは思わず振り返ると、天井に生まれつつある黒煙の雲海に目を剥いた。それらは炎を伴って迫り来る。

「急げ!」弟の背中に腕を回し、会衆席の狭間を半ば匍匐した。

 だが、床の歪みに足をとられ、モリと一緒に転がり伏した。

 火の粉が舞っていた。モリの上に被さるレンに、それは容赦なく降り注いだ。

「進め、モリ……!」

 腹這いに伏した弟を前方に押しやった。彼は自ら屋根になり、四つん這いになって進んだ。

 希望を打ち砕かれるほどの灼熱。前方にあるはずの扉がやけに遠く感じる。

 もしかしたら、すでに地獄に堕ちたのかもしれない……。

 モリは絶望の暗闇に踏み込む自分達の姿を見た気がした。

 レンの悲鳴が上がった。かつて一度も耳にしたことのない、身を貫く叫び。モリの頭上でそれは響き、末端まで振動した。

「レン……」

 見上げたモリは共に悲鳴を上げた。両手で半顔を覆う兄。その周りに火の粉が踊り、レン諸共、焼き尽くそうとしていた。

「い、行け……!」

 だが、彼は唸りを歯で噛み殺しながら、朦朧と身動きのとれない弟を引いた。

 白く固まる意識。まさか、こんなことになるとは……。

 モリはひたすら、夢の中へと続く甘い逃げ道を探した。

 もう駄目だ。二人共ここで終わり。神から下された天罰は、予想以上に大きかった。

 しかし、聖堂の扉が開け放たれた。流れ込む夜気。吐き出される黒煙。荒れる炎は勢いを増し、彼らのすぐ後ろにまで迫った。

 弟の脇腹を掴んでいた。レンは力の限り立ち上がると、口を開けた闇夜に転がり込んだ。

 途端に彼らの頭上から大量の水が蒔かれた。前触れのない衝撃に縮み上がり、肺を塞ぐ煙を死にもの狂いに吐き出した。

 辺りは人の気配に溢れていた。炎上する聖堂。手の施しようもなく、呆然と見つめる村民たちが次々と集まっていた。

「やっぱり、おまえか!」

 ずぶ濡れで倒れる兄弟を、彼らは息つく間もなく立たせた。炎の猛りを顔に映した地獄の番人に囲まれ、為す術もなかった。

 モリはうわ言のような奇声を上げながら、四肢を激しく振った。しかし、彼らは無情に平手打ちを食わせると、一斉にレンを見つめた。

「モリ……!」赤く爛れた半顔は涙に濡れていた。項垂れた弟に寄る兄を、村人たちは両脇を掴んで引き離した。

「てめ、離せよ!」

 身を捩るその前に、一人の村人が踊りかかった。暴れる胸倉を両手で持ち上げ、不揃いな歯を剥き出しにした。

「レン、貴様……今度こそ容赦しねぇ……」

 そして、変わり果てた半顔に唾を吐きかけた。

「ざまあみろ、天罰だ!」

 鋭い眼で刺す少年を、男は高らかに嘲笑した。

「待ってくれ」

 しかし、取り囲む村人たちの中から、蒼ざめた司祭が足を引き摺り出した。その声は、老人と紛うほどだった。

 輪の中にはマレーナの姿もあった。寝巻きの前を押さえ、人々の隙間から強ばった顔を向けていた。

「一つ訊きたいことがある、レン……」退く男に代わって、傷ついた少年を見つめた。

「おまえは気の毒な子供だと思っていた。数々の悪行も、神に与えられた境遇がそうさせているのだと思った。いつかはその試練を乗り越える。そう信じて来たが……おまえは、どうして閉ざされた聖堂に侵入した」

「 <聖遺物> が目当てに決まっている!この、こそ泥が!」

 周囲から罵詈雑言が飛んだ。それらを遮るように、司祭はそっと片手を上げた。

「私を見てくれ、レン」すがる声音は救いにも似ていた。

 レンは唇を苦し紛れに噛むと、ゆっくり顔を上げた。凝視する司祭の翡翠眼が灰色に濁っている。

「聖遺物のことを誰に聞いた。もし、おまえの目的がそれだとしたら、どうしてその価値を知ることが出来たのだ。おまえたち弱年は、知る由もないはず……」

 少年は息を呑んだ。咄嗟に朦朧としたモリを見つめ、そしてマレーナに視線を走らせた。

 だが、彼女の顔は恐怖で歪み、闇夜に青白く浮かんでいた。

 司祭はレンの視線を追った。どんな些細な心の動きも見逃さない。彼にはそんな無言の執念があった。

「マレーナ、か……?」

 彼はレンだけに呟いた。半信半疑に眉を顰め、収縮する瞳孔を見つめた。

「こんなこと言いたくないがな、司祭様!」

すると、どこからか乾いた声が上がった。

「その小僧があなたの娘と厩に籠もってんのを見たんだ。そいつはとんでもねぇ、小僧なんだよ!」

 やけに響き渡った。聖堂の弾ける音に混ざり、その悪魔的な告白だけが円を描いた。

 たちまち、地鳴りともいうべき唸りが生じた。村人たちは明らかに狼狽し、悲鳴を上げ、罪人に対する嫌悪に怯えた。

 モリは顔を上げた。渦を巻く思考に飛び込んだ、耳を疑う真実。

 レンが……マレーナと……。

 振り返った司祭は土色にくすんだ顔を娘に向けた。同時に無数の好奇な視線が少女を捉え、崖淵へと追いつめた。

「嘘よ!」マレーナは狂女のように頭を振った。金色の髪を振り乱し、がなり声を吐いた。

「レンに食べ物を持って来いって命令されて……本当よ!無理やり身体だって触られた!拒んだら……父さんに言いつけるって……」

「てめぇ……!」

 身を乗り出すレンに、四方の腕が絡みついた。首元を押さえ、頭を掴み、村人の塊の中に引き込んだ。

 地面で号泣する娘を唖然と見た父は、戦慄く唇から途ぎれる息を吐き出した。そして、揉みくちゃになる少年を冷ややかに眇め、一度目を閉じると、無言のまま踵を返した。

 娘を連れて司祭は消えた。燃え尽き、鎮火しつつある聖堂と共に、少年を非情な獣の群れに置き去りにした。

 レンは藁袋のごとく、蹴られ、弾かれていた。

 その傍らで、モリは細い悲鳴を上げ続ける。女たちに目を塞がれ、混沌とした暗闇の中で救いを求めた。彼の心の目には、食腐鬼《グール》の群れに骨を噛み砕かれる兄が映った。

「おまえのやったことはどれほど罪深いか……今ここで処刑されても文句は言えねぇ」

 力尽きたレンを、一人の男が力任せに持ち上げた。

「俺たちの聖堂を燃やしやがって……聖遺物がどんなに大切な物か分かってんのか。こんな幼い弟まで巻き込んで、どこまで性根が腐ってやがる!」

 彼は何も答えなかった。あのモリが、どうしてこんな行動を起こしてしまったのか。それが、痛いほど分かった。

「それなのに、司祭様はおまえを庇い続けた。その温情をこんな形で踏みにじって……絶対に許さねぇ!」

 喚声がとぐろを巻いた。異常な熱が彼らを支配し、項垂れたレンを引き摺り回した。

「そんなに厩が好きなら、一生そこに居ればいい!俺たちで性根を叩き直してやる。いいか、命があるだけでも有難いと思え!」

 レンは薄れ行く意識の中で顔を上げた。霞の向こうにいるのは愛しい弟。汚れを知らないモリが、罪深い悪行を働いた。そこまで、追いつめたのは何なのか。自分のせいか、それとも……。

「モリ……」レンは塞がる咽喉から声を絞り出した。

 しかし、償わなければ先がない。でも、償って済むのなら、弟と共に償おう。これからの、二人の為に。

「モリ……おれたちで……」

 モリは無表情に蒼ざめた顔を上げた。松明に照らされた兄は、さながら濃い陰を落とした亡者のようだった。

「レン……」

 わずかな囁きに、村人たちの視線が注がれた。

「モリ、おまえのような子が自分の意思でここにいるとは思えねぇ。どうせ、こいつにそそのかされたんだろ。そうならここではっきりと『そうだ』と言ってみろ!さもないと……」

 歩み寄る村人の顔は、見たことのないものだった。誰もが悪魔に憑かれ、口から零れる餌を待ち望んでいる。

 彼らは決して許さないのだと知った。死の際まで追いつめ、灰になるまで許さない。朦朧とする恐怖に呼吸を荒げ、かすれた唸りしか吐けなかった。

 聖堂を燃やすつもりなどなかった。どうして燃えたのかも分からない。ただ……。

「モリ……」

 兄の呼びかけすら、モリには聞こえなくなった。

 何が起きたんだ。どうしてこんなことに。なぜ自分はここにいるのだろう……。

「おい小僧、どうなんだ!」

 庇う女たちの腕を振り切り、褐色の腕が伸びた。そして、小指ほどの細腕を力任せに掴んでは、容赦なく揺さぶった。

「まさか、おまえも……」

「知らない!」

 モリは、一心不乱に叫んでいた。

「知らない!ぼくは知らない……!」

 村人の腕を払いのけ、ガラス玉の目を見開いた。

「本当だろうな……」

「知らないって言ってるだろ!ぼくは、知らない!」

 辺りは不気味な静寂に包まれた。焼け崩れた残骸から苦い煙がたちこめ、ここにいる者のすべての目に、泥の涙が浮かんだ。

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