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紅い月がのぼる塔/6.愛の跡

 紅い月が消えた。

 朝靄が月の塔を覆い、漆黒の帳を水平線から巻き上げて行く。

 マヤは日射しのない螺旋階段を下り、何層にも折り重なる小部屋をくまなく回った。

 彼らはどうやって生活してきたのか。そんな疑問が湧くほど閑散としたここは、荒れ果てた巣穴と相違ない。

 彼女は一晩中、震えるモリと寄り添った。

「クロエは紅と黒の月が好き……」

 マヤの肩に頬を寄せ、少年は謎めいた言葉を囁いた。

「駄目だよ、マヤ。クロエに会っちゃ。悪魔だからね。喰われるよ」

──悪魔──

 そうやって互いの熱を心地良く感じ、心の片隅に巣くう寂寥を埋めた。彼女にとってそれは、渇いた器を満たした、ささやかな平穏の時だった。

 男はとうとう戻らなかった。彼女を広間に置き去りにしたまま、忽然と姿を消した。その事に疑問を抱きながら、一階のフロアに降り立った。

 音を弾く冷えた空間。綿埃に埋もれた円形の床に、籐籠だけが無雑作に置かれている。

 どうしてこんなところに。日焼けのない瑞々しさを主張する違和感に怪訝に近寄ると、蛇穴を覗くように蓋を開けた。

 そこには、熟れた果物や穀物などの食材が雑多に詰め込まれていた。これが何を意味するのか、理解するには十分だった。彼らの生命線、クロエからの <餌> なのだと。

 紅と黒の月。望月と朔。クロエは月に二度現れるという。モリですら、それ以上のことは知らない。ここは異界なのだろうか。関わるほど遠ざかる現実に、毛穴が塞がる思いだった。

 構内はどこも潮で朽ち果て、見事な蜘蛛の巣が壁を飾った。塵や埃に乗せて湿気までが鼻を突き、陰鬱な風が漂っている。

 一刻も早く外気に触れたい。マヤは足早にフロアを立ち去り、薔薇の装飾に囲まれたアーチを潜った。

 腕に刺さる他者の気配に飛び上がった。塔の外壁にすがり立つ黒髪の男。彼方を虚ろに見つめ、裸身に薄い布を羽織っただけの無防備な出で立ちだった。

 いつからそこに居たのだろう。身ごろを合わせる気もないのか、褐色の素肌を晒している。

 彼女はその横を無言で通りすぎた。まるで、男の存在などないかの様に。

「どこへ行く」

 呼び止めるレンに足を止めた。

「聞いたわ。その傷のこと」背を向けたまま淡々と答えた。

「療材《レメディ》を集めて来る。モリと約束したの。あなたを助けるって。その傷、放っておいたら手遅れになるわ。だから、私を攫ったんでしょう?」

 足を踏み出す女に、男は遮るように続けた。

「待て。このまま逃げ出さないとどうして言える。モリを連れて行け」

 虚ろに壁にもたれ、片目だけを動かした。

「必要ないわ」マヤは顎を吐息混じりに上げた。

「私は沼地の治療者。約束した以上、全力で治療する。それがどんな相手でも。信用できないのなら、どうぞご自由に。でも、あの子は足を怪我しているわ」

 その揺れない口振りに、男は鼻で苦笑した。

「なるほど。魔女も情に流されたか。おまえも、あのモリが憐れだと……」

「違うわ」刺々しく突く皮肉な言葉に、こめかみが脈打つのを感じた。

「確かに、あの子は惨めよ。でも、治療者として、あなたのことが気がかりなだけ。それに、 <従え> と強制しながら私を試すのはやめて。あなたの言葉を聞いていると、私を遠ざけようとしているとしか思えない」

 レンは押し黙った。躊躇いのない言葉が癇に障る一方で、愉快にも感じた。マヤの顔は見えない。しかし、握られた拳が僅かに動くのを見て言った。

「おれが怖いのか」

 彼女は無言で頭を振った。

「それなら、何故おれを見ようとはしない。恐れていないのなら、おれを見ろ、マヤ」

 その名を呼んだ。マヤはそこに見えない鎖を感じ、唇を噛んで振り返った。向けられた威圧に抵抗していても、静かな口調には力がある。だが、彼女が見たのは狂人の宴。肉欲のにおいが下品に漂う、邪悪な姿態だった。

 男の全身に、紅く腫れた麻縄の跡が残っていた。四肢や胸のみならず、首筋、腹、鼠径部を擦り、それによって未だ緊縛されている。その狭間には、紫に沈着した愛の証が散りばめられ、解放されたばかりか身体は火照り、内腿を濡らしていた。

 満たされた欲望に潤む、退廃的な漆黒の瞳。

 マヤは呆然と息を呑み、痛々しさすら漂う情事の残骸に言葉を失った。

──丸ごと、喰われる……──

 両手を陽射しに向け、朦朧と指を透かすレン。手首に滲む血を見つめ、それをぺろりと舐めた。

「これが、おれだ」気だるく両手を垂らし、衣がはだけるままにした。

「息が出来ないほどの束縛。その快楽と引き替えに身体が蝕まれていく。この <傷> は、呪われたおれに相応しい、悪魔の烙印なのかもしれない」

 全身が心臓になった気がした。微笑みすら感じる男を凝視し、眉を顰めた。

 しかし、彼女が絶句すればするほど、男は今にも笑い出しそうだった。

「どうした、今までの勢いは」

 霞んだ瞳に光が射した。冷ややかに細め、ほくそ笑む。

 マヤは思った。彼は反応を楽しんでいるのか、それとも……。

「あなたの見解は違う」漸く口を開いた。

「まずは、まともな服をお召しになることね。あなたの <傷> は、悪魔の烙印でも何でもない。ましてや快楽の代償でもない。あなたが治癒を望めば必ず消える。その為には、私のやり方に従ってもらうわ。例え不本意でも」

 目尻に溜まった涙を無雑作に拭った。

「面白い」レンは吐き出すように言った。

「その言葉を忘れるな、沼地の魔女」

 彼が求めているのは何か。マヤは掴みどころのない男に一瞥を投げ、踵を返した。

「夕暮れには戻るわ」それだけを残して歩き出した。

 だが、門を抜ける前に再度振り返った。そして、未だ外壁に佇む男に言った。

「一つだけ訊かせて。あなたにとって <クロエ> の存在は、なに」

 男は笑った。まるで、それが愚問だと言わんばかりに。

 両手を広げ、揺蕩う風を掻き抱いた。続いてレンの口から漏れ出たのは、甘い愛の囁き。

「クロエは、おれの、 <神> だ」

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