紅い月がのぼる塔/29.刻まれた言葉
「秘密……」
レンは薄ぼんやりとクロエを見つめた。一番遠くにいたはずの者たちが、瞬く間に線で結ばれていく。
マヤは予想もつかなかった繋がりに絶句し、呆然と彼らの行方を追った。
「モリ、レンはわたしの躾た飼い犬。例え縋りつこうと、おまえの罪を許さない」
嘲りをこぼしたクロエは、立ち尽くす男の頬を撫で、少年の抵抗する瞳を突き刺した。
「おとなしくこちらにおいで。そうすれば、煩いはなくなる」
しかし、モリは紅い首輪を毟り取り、薄汚れた絨毯の上に投げつけた。
「許さなくてもいい!」そして、覚悟を決めた昂りに、薄く涙を滲ませた。
「兄さん、クロエは悪魔だ……」
不可解に強ばる兄を真っ直ぐに見つめ、苛み続けたしこりを払拭しようとした。
どれだけ、レンの心に響くのだろう。赤毛を梳く指の感触。背中から伝わる体温。頬を笑いながら抓ったあの兄が、 <ぼく> を、殺すかもしれない……。
モリは息を吸い、震える両手で服の裾を握りしめた。
「クロエは、八年前のあの檻の中で、ぼくに恐怖と屈辱を与えた。怯えるぼくの口を塞ぎ、首筋を噛みながら、『飼い犬になれ』と……犯した!」
魂の悲鳴だった。潮風も鳴りをひそめ、打ち寄せる荒波も沈黙する。モリは両手で顔を覆い、秘めた咆哮を放った。
「レンに決して言うなと言った。 <愛> は秘密にするものだと。だけど、それがぼくを縛り続ける、破滅の唄に聞こえて恐ろしかった!」
モリは無気味に流れる静寂の中で顔を上げた。レンの顔は恐ろしく蒼ざめ、愕然と身を震わせていた。そこには悪鬼が宿り、鋭い爪を今にも剥き出しそうだった。
「兄さん……」
レンは後ろによろめき、呼吸を荒げた。弟を凝視する目だけが爛々と光り、そして、閉じることを忘れた唇が痙攣した。
これで終わったのだ。兄との別離が、こんな形になるなんて。モリは己の言葉を恨み、消え行く絆を見つめた。
だが、レンは途端に歯を食い縛ると、クロエに向かって平手打ちをくらわせた。
「よくも、おれの弟に!」
彼は絶叫した。そして、女に掴みかかり、両手で首を絞めた。
「よくも!」
モリは目の前で何が起きたのか、すぐに把握できなかった。クロエがその両手を掴んでも、彼は怒りの矛先を女にぶつけ、咆哮を上げ続けた。
「モリは放し飼いにすると言ったじゃないか!それなのに、よくも、弟を……!」
レンは半ば狂乱していた。我を失い、血走った両目からは、紅い涙が流れる。
こんな兄を見たのは初めてだった。その横顔に、複雑な感情が交錯した。
──モリを守る為なら、兄さんは何だってやる──
モリは気付いた。遠い昔の言葉が蘇り、それが、今も鮮やかに生きていることを。
「駄目よ、レン、手を離して!」
遮る言葉に手を止めた男は、クロエの首筋からそれを滑り落とした。しかし、女は床に崩れ、両腕を無防備に広げたまま動かなかった。
「クロエ……!」レンは同時に跳ね、力尽きた女を抱き締めた。
「クロエ、クロエ!」
その名を何度も呼び、揺さぶり、乱れたプラチナの髪に顔を埋める。
「兄さん……」
農村を焼き、馬で連れられたあの林道。見たこともないキャリッジから現れた女は、立ち尽すレンに向けて、冷徹に呟いた。
「全てを葬れと言ったはず」
切れ長の冷えた視線が、震えるモリの上を這い回る。だが、レンは顔色を変えなかった。ただ一言、「こいつが憎い」と、言った。
女は笑った。「面白い」と、それだけを返し、御者の隣に座ることを許した。
モリは全てが見えた気がした。兄は本当に自分を憎んでいたのだろうか。
駆け寄ろうとするモリを、レンは顔を上げて制した。
「寄るな!」
彼は泣いていた。クロエを胸に抱き寄せ、顔を苦しく歪めると、何も言葉に出来ず立ち上がった。そして、燃え盛るランタンを持ち上げた。
「兄さん……」
モリは蒼く沈んだ兄を見つめ、じりじりと退く足を止めようとした。だが、クロエを抱えたレンは、バルコニーを背に静かに告げた。
「おれのような人間にはなるな」
そのまま露台に足をかけた。
「待って、兄さん!」
レンの瞳は果てを見ていた。彼はここに居ないのだ。
しかし、モリはその中に同じ風を感じた。庭先の古ぼけた柵に腰かけ、夕日を見ながら語り合った日々。肌を撫でるそよ風は至極優しく、その元で笑うレンの笑顔も、力強く眩しい。
「おれは以前のおれとは違う」彼は酷く孤独だった。
「何もかも……あの炎の海に捨てた。こんなおれが、ここを出てどうやって生きていける。きっと、太陽はおれを焼き殺すだろう。木々を抜ける風は毒を撒き散らす。力強く芽吹く新緑も、海の蒼い飛沫でさえ、おれを死に追いやるだろう。おれの生きる場所はここしかない。クロエの元しかないんだ」
「そんなことないよ!」モリは薄れゆく兄の輪郭に縋った。
「兄さんが好きなんだ。ぼくたちは、また上手くやれる。兄さんを囲む木々も、きっと優しいから……」
レンはぎこちなく微笑んだ。しかし、それが弟に対する、精一杯の微笑みだった。
「行け」
彼は無造作に吐き出した。それから、一瞬、マヤを見た。彼女はその視線に胸騒ぎを覚え、足を一歩踏み出した。すると、男はランタンを突き出し、ガラスを割って火を放った。
「レン!」
それは、たちまちレンと彼らを隔てた。炎の精霊が勢い良く解き放たれ、流れ出る油と共に、乾いた絨毯の上を駆け巡る。
「いやだ!」飛び出そうとするモリを、マヤは羽交い絞めにした。
闇を食い物に成長していく炎。それは、みるみる膨れ上がり、あらゆる形に変化していく。意志を持つ灼熱の魂のように、両手を広げ、床や壁を呑み込んだ。
レンはバルコニーに立った。瞳に映るのは、炎の向こうで泣き叫ぶ弟。彼は燃え広がる業火を見渡し、聖堂で浴びた火の粉を感じた。それは、肌を残酷に焼き、幾つもの魂を奪った。
わずかに残った骨すらも、村の猛火が跡形もなく焼いた。ここに居る己は、まさしくゴースト。
それなら、次は何を焼き尽くす……。
「兄さん!」
モリの声が聞こえた。彼が生まれたその時から、他の誰よりも大切にした声だ。
全てのものをモリと見てきた。同じ炎を見つめ、焼けていく魂を見つめてきた。
そうだ。レンは気付いた。自分が何よりも欲しかったもの。それは、澄んだ海底に沈む、碧眼《ターコイズ・アイ》。
モリは兄の名を呼んだ。そして、炎に掻き消える唇を見つめ、刻まれた言葉を聞いた。
──モリ、おまえを、愛している──
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