紅い月がのぼる塔/27.二つの性
彼らは何度も交わり続けた。互いの身体を求めては溶け合い、表裏も分からなくなるほど、混在した一つの塊と化した。
マヤは両耳を塞ぎ、寝具に突っ伏していた。これ以上は耐えられない。濃厚な薔薇の香りと麝香、そして、放たれた精のにおいに身震いがする。
レンを救うことなど、無理なのかもしれない。彼のあの傷は、欲望と魂の中で永久に息づいているのだ。彼女は突きつけられた敗北感に嗚咽を呑んだ。
「わたしを見なさい、マヤ」
クロエの囁きが耳元で鳴った。マヤは途端に勢い良く跳ね起きると、蒼ざめた顔を女に向けた。
辺りはいつの間にか静まりかえっていた。レンは気を失っているのか無防備に果て、寝具の上に横たわっていた。
女と二人きりだった。激しい交わりが嘘のように、クロエは一糸乱れず、淑やかに立ちはだかっていた。
マヤはたちまち危機感を覚えると、女の元から離れようとした。だが、両腕を強く掴まれ、阻まれてしまった。
「孤独なマヤ。おまえも連れて行ってあげる。レンと同じように、愛と快楽の波の中で、存分に溺れるがいい」
クロエは収縮する栗色の瞳を直視し、震える唇に指を這わせた。
「おまえも愛が欲しいはず。誰にも心を許さず、孤独に怯える姿が見える。おいで、マヤ。可愛い子猫。わたしに身を委ねなさい。おまえの中に潜む、果てなき欲望を解放してあげる」
唇を塞がれていた。肉厚の柔らかな粘膜が、マヤの震えを芯まで貪る。しかし、彼女はそれに抵抗出来なかった。麝香の香りが理性を狂わせ、女の思うままに身を委ねていた。
クロエは硬直する身体を胸に抱き寄せると、互いの膨らみを重ね合わせた。絹を思わせる肌の感触。弾力のある滑らかな心地よさに、マヤは一層、恐怖した。
「離して!孤独に怯えてなんかいないわ!」
奈落に堕ちてしまう。これが、クロエの魔力。兄弟を巧みに鎖に繋ぐ、悪魔的な力なのか。
「レンを放して。こんなのは愛なんかじゃない。自分の欲望の為に、彼を無理やり残酷な縄で縛りつけているだけよ」
クロエの目が怪しく光った。マヤの頭を両手で覆い、苦笑を織り交ぜて言った。
「おまえも同じことを言うのね。あの子犬と」
口端を歪め、噛みつかんばかりに顔を寄せる。
「でも、レンがそれを望んでいないと本当に言いきれるの。おまえも見たでしょう。苦痛に快楽を求め、解放された美しい姿態を。あれが偽りだと、おまえは言いきれるのかしら」
低音の掠れた囁きが脳内で反響する。マヤは顔を反対に背けると、唇の端を噛んだ。
「認めなさい。これも愛の形であると。己の中の未知なる欲望に怯え、目を塞いでいるだけなのだと」
クロエは更に詰め寄った。マヤの上に覆い被さり、逃げ場をことごとく奪っていく。しかし、彼女はそれを引き剥がし、逃れながら叫んだ。
「彼は、あなたから解放されたがっていた。その為に私を呼んだわ。だけど、それを阻むのはあなたの存在。主であるあなたが、レンを放さないからよ!」
女は笑った。なおもマヤの身体を引き寄せ、戦慄く首筋に舌を這わせた。
「わたしがレンを解放すると言ったら、あの子はそれに従うかしら」
震えるマヤの手を取り、己の下腹部に押し当てた。
「わたしは両方の性を持ち、その一方で、性を持たない生き物。だからこそ、レンはわたしを求め、苦しみから救われた。おまえにその意味が分かるの」
女の手が緩やかなカーブを描き、マヤの胸元に触れた。
「教えてあげる。恐れることはないわ。おまえはレンに似ている。わたしたちをもっと知りたいのなら、ここでわたしに抱かれなさい……」
マヤは全力で逃げ出した。それとも、クロエが逃がしたのか、それすら分からない。ただ一心不乱に、紅い布壁の狭間を駆け抜けた。
鼓膜にしがみつく悪夢の喘ぎ。マヤは地下から飛び出すと、夜風の吹き荒ぶ荒地を縫った。
麝香のにおいが離れない。毛穴の中まで侵食したそれは、彼女自身の香りのように、辺り一帯に漂った。
「モリ!」
マヤは懸命に叫んだ。モリに会いたい。彼なら狂ったものを正気に戻してくれるに違いない。辺りを見渡しながら、闇夜の中を叫び続けた。
──マヤ──
風に乗ってその声が聞こえた気がした。草木を掻き分けながら、塔の外壁を巡る。
マヤは漸く気がついた。外壁の窓に見えるのは、レンの部屋にかかる薄布。ここは、彼の部屋から望める場所だった。
──何をしているの……──
彼女は今朝、レンに掛けた言葉を思い出した。潮風の通り抜ける窓を開け、隙間から外を見つめていた背中。あれは確かに何かを気にしていた。彼が気にかけるのは、モリのことしかない……。
塔から派生する幾つもの建物の中から、あの窓を望める棟を探った。
「モリ、どこなの!」
半地下へと伸びる横長の棟。丈高い雑草を払いのけ、暗闇に目を凝らしながら、その外壁をひたすら辿った。
「マヤなの?ここだよ……」
地面からわずかに覗いた鉄格子から、白い指が動いていた。マヤはそこへ駆け寄り、その指を掴んだ。
「マヤ……!」
彼は薄暗い半地下に居た。暗闇で殆ど見えないものの、互いに握り合う指先からは、抑えた気持ちが溢れ出ていた。
「マヤ、無事なの?クロエに何かされてない?」
モリの声は酷く掠れていた。我が身を省みず、今も彼女のことだけを思っている。その気持ちが痛いほど伝わり、胸に熱いものが込み上げた。
「私は大丈夫よ。すぐにそこから出してあげるわ。待ってて!」
彼女はこぼれそうになる涙を堪え、再び草木の茂る暗闇の中を奔走した。崩れた岩壁の破片を持ち上げては、半地下に続く棟を駆ける。
坂道を下る湿気た通路の奥に、その檻はあった。
「マヤ……」
マヤは鉄格子に駆け寄ると、岩壁の破片を振り上げた。古ぼけた錠前を何度も打ち、とうとうそれを壊した。
そして、鉄格子を開けて知った。モリは何もない薄闇の中に幾日も閉じ込められていたことを。ここから逃げ出す為に、唯一の寝具を破壊して、あらゆる手を尽くしていたのだ。
力なく座り込む痩せたモリを見つめ、彼女は扉の前に両膝をついた。
「マヤ……大丈夫……?」
安堵で微笑むモリが愛しかった。でも、それだけじゃない。薔薇の褥で味わったことは、今になって彼女の内を複雑に掻き回した。
啜り泣いていた。抑えても拭っても、止め処なく溢れ出す涙。モリは、声を殺して泣くマヤに近寄ると、小さな声で問いかけた。
「クロエに何かされたの?大丈夫、マヤ」
しかし、彼女は首を横に振った。
「違うの。なんでもない……大丈夫……本当になんでもないの……」
見たくない無力な自分を見た気がした。褥から逃れ、こうして惨めにうちひしがれている自分は、何故ひと時でも心が通ったと思ったのだろう。
顔を覆うマヤに、モリは軽く触れて言った。
「なんでもないのに、あなたは、そうやって泣くの……?きっと、レンのことなんだね」
彼女は欠けていく自分自身を抱き、モリの手の温もりにすがった。
マヤが泣き止むまで、彼は静かに見つめた。そして、肩の震えが治まる頃、寂しげな微笑を浮かべて言った。
「あなたが無事で良かった」
マヤは心からの呟きを噛みしめると、顔をゆっくり上げ、涙を拭って言った。
「今すぐここから出ましょう。先にあなただけでも出るのよ。ここに居ては逃れられないわ。レンのことは私に任せて。先に私の母屋に戻っていてちょうだい」
モリは即座に眉を顰めた。
「先に戻れだなんてとんでもない。それならマヤも一緒に行くんだ」
重い身体を起こし、思いつめたように息を吐いた。
「レンは……もっと時間が必要なの」
確信などなかった。あの姿を見てしまった今、手を尽す方法も見当たらない。
「だからと言って、マヤをここに置いては行けない。ぼくもここに残るか、兄さんを無理にでも連れ帰るか、だ」
立ち上がったモリは、至極大人びた視線をマヤに向けた。
「どうする気なの」
マヤも立ち上がり、少年の中に芽生えた確固たる意思を、怪訝に直視した。
「クロエに会う。ぼくたちにとって、どうしても必要なことなんだ」
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