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紅い月がのぼる塔/23.真夜中の褥

 レンは弦月が近付くにつれ、真夜中にうなされるようになった。マヤを背後から抱きすくめ、うわ言を呟き始める。

「レン?」

 その夜も肩越しに振り返った。しかし、彼は胎児のように身を丸めて、同じ言葉を繰り返した。

 マヤはゆっくりと身を起こすと、枕の下から白粒の小瓶を取り出した。そして、男の口元に耳をあて、うわ言を聞いた。

「たすけて……」

 彼はいつもその言葉を呟いていた。マヤが額に触れるまで、正体もなく唸り続ける。

「大丈夫よ、レン」

 彼女は静かに宥めながら、額や頬に触れ、髪を撫でる。時おり子供をあやすように、歯の隙間からシーシーと息を吐き、額の汗を拭った。

 彼はきっと、月の動きと共にこれを繰り返してきたに違いない。マヤはわずかに浮き上がる魂を見つめ、それの動きを追った。

「何から助けて欲しいの……?」静寂の狭間。返らぬ問いを呟き、そして言う。

「私が助けるわ」

 何かの呪文なのだろうか。マヤのその言葉で男は必ず目を覚ます。熱にうかされた者のように虚ろに目を開け、一点を見つめた。

 暗闇で何を見ているのか。瞬きもしない顔に触れ、薬《レメディ》を口に添えた。

「これを飲んで」

 真夜中のレンは素直に従った。朦朧と彼女を見つめ、白粒を飲み下すと、再び眠りに落ちていく。翌朝、彼がそのことを記憶に留めていないのが救いだった。

 今出来るのは、深夜の治療。マヤは眠る様子をつぶさに観察し、処方を常に組み立て直した。

 こうして、幾夜を重ねるにつれ、レンの唸りは安らかな寝息に変わっていった。

「おまえはどうして治療者になった」

 弦月を過ぎたある夜、レンは突然そんな質問を投げかけた。彼女を当然のように懐に寄せ、亜麻色の髪に顔を埋める。

 マヤは意外に思った。日中はほとんど言葉を交わさず、彼の目の届くところで薬《レメディ》を作り続ける。気まぐれにその様子を眺めること以外は、関心を持っているとは思えなかった。

「私を拾ったのが治療者だったの」

 今となっては、背中に伝わる体温も馴染む。他人と眠ることなど出来ないと思っていたのに。見慣れた男の腕を、暗闇の中で見つめた。

「おまえも拾われたのか」

 マヤはその声音に、はたと気付いた。何かが違う……。

「おれたちと同じだ」

 つむじに響くそれに、微少の緩慢さを感じる。

「厳しい人だったわ。後継者がどうしても欲しかったのね」

 治癒が進んできたのだ。漸く表れ始めた変化に、彼女は血が踊り出すのを感じた。

「でも、今では感謝しているの」

 レンの手の平が滑り、マヤの手を覆った。そして、沈黙の後、溶けるように微睡んだ。

 規則正しく響く鼓動。背中から通して聞こえる律動に、彼女も穏やかな気持ちで目を閉じた。

 満月は明日に迫った。レンはどことなく落ち着かず、その気持ちをリュートにぶつけた。時たまマヤを凝視しては、無言で眉を顰める。

 彼女は微笑み返した。クロエに会うことで何かが変わってしまうかもしれない。その不安がない訳じゃない。しかし、あの勝ち誇った笑みを見てしまった以上、逃げるものかと思った。

 檻の中ではモリが最後の望みを賭けていた。

「レン、ぼくをここから出して」鉄格子を握る手が汗ばみ、兄の頭上で震える。

「レンだって本当は会わせたくないはずだよ。だから、ぼくが代わりに行く」

 男は伏した視線を上げ、弟の懇願を目を細めて見つめた。

「きっと、ぼくが行けば許してくれる。だってクロエは、ぼくのことも欲しがって……」

「黙ってろ」風を裂くほどの一蹴だった。

「ずいぶん強気だな。そんなにあの魔女が大切か」

 眉間を寄せ、初めて見る弟の精悍な眼差しに苦虫を噛み潰した。

 隈の浮かんだ目元。だが、その奥に光るのは、迷いのない輝き。

「マヤは大切な人だ」

 純粋な、それでいて力強い言葉だった。しかし、男はそれすら鼻で笑った。

「おまえも憐れだな。その大切な相手は、おれの腕の中で眠っている」

 モリは途端に青ざめた。嘲る兄の口元を見つめ、鉄格子に食らいついた。

「嘘だ……!」咆哮が鉄を鳴らす。

「ここから出せよ!」格子の隙間から片手を突き出した。

 レンは空を掻く指先に一瞥を向け、無情に吐き捨てた。

「そんなにあの女が大切なら、この鉄の棒を噛み砕いてでも出てみせろ」

 そして、冷酷に背を向けた。

「出せ!」

 モリを見れば見るほど膨らむしこり。掴んだつもりになっても、手中から逃げて行く。そんな弟に苛立ちを感じた。

 石のコンコースを歩きながら、両手首に残る麻縄の跡を見つめた。それは、消えない愛の枷。時を経るほど濃くなるそれに、胸が焦がれた。そのはずが……。

 半顔に触れた。クロエを思えば疼き、生物のように侵食していたそれが、滑らかな感触に変わりつつある。

 震えが込み上げた。汚れこそが、己の存在を示す証。その証が、消えていく。モリのようにはなれないのに。疑いのない純粋な視線を恐れもなく向けることなど、もう出来ないのだ。

 レンは所在のない不安に呼吸を荒げた。夕べの潮風が黒髪を梳く。それは、こびりついた瘡蓋を一枚ずつ剥がした。消えたはずのかつての自分。見え隠れするそれに、唸りを漏らした。

 今宵の海は荒れていた。不完全な円を描き、蛇腹の波を照らし出す月。壁に落ちる光も、心なしか煌きを放っている。

 マヤの背中には、いつものように男の胸があった。黙していても、お互いに寝つけないのは気配で分かる。

 明日の今頃は、一つの形が見えているはず。レンとこうしているのも、最後になるかもしれない。複雑な思いを闇に映した。

 すると、男の腕が絡みついてきた。毎夜繰り返す儀式さながら、強く抱きすくめる。

 いつもは、それだけだった。しかし、今夜はみぞおちの手が滑り、柔らかな胸に触れた。

 マヤは息を呑んだ。輪郭を優しくなぞる指先。それは、腰や腹にまで落ち、円を描いて撫でて行く。

 不思議と嫌ではなかった。もしかしたら、こうなることが自然だったのかもしれない。彼女は目を閉じると、レンの指の感触に集中した。

 彼の手は丁寧に身体を滑った。胸元の紐を解き、広い襟ぐりから肩を露わにする。うなじの髪を掻き上げ、首筋、そして、鎖骨にかけて舌を這わせた。

 唇を軽く噛んだ。乳房を弄る執拗な愛撫に咽喉が震える。だが、それは果てしなく繊細で、身体の芯を溶かすものだった。

 衣の裾をたくし上げた。汗ばむ腿を愛で、マヤの身体を昂らせる。痺れる肌、跳ねる腰。抑えられない吐息に、瞬く間に熱が広がった。

 衣擦れの音が響いた。火照った身体を啄ばむ音。男の長い指先が、開かれた腿の狭間に落ちた時、思わず声が漏れた。

 その唇をレンは口づけで塞いだ。熱い舌を求め合い、溢れる吐息を呑んでいく。

 濡れていく身体。打ち寄せる荒波が、大海原の只中へと誘う。

──マヤ──

 しかし、彼女は突然、咽喉を鳴らした。閉じた目を大きく見開き、彼方に向けて耳を澄ました。

──マヤ──

 モリ……。

 少年の声が聞こえた気がした。岸壁を打つ轟音に紛れ、それは内に響いた。

「待って……」

 彼女は呆然と呟いた。そうだ、モリは今もこの闇の中に一人でいるのだ。

「出来ない……」

 怪訝に歪む漆黒の眼差しに向けて言った。

「モリか」

 レンは凝視する視線に淡々と告げた。穏やかに潤んだはずの瞳に、たちまち鋭い光が射す。

「忘れろ」

 端的に吐き出し、両手を寝具に押さえつけた。

「お願い、やめ……」

 動き出す唇を強引に塞いだ。舌を吸い上げ、悲鳴を奪う。そして、身体ごと割り入ると、彼女の中に己を穿った。

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