紅い月がのぼる塔/4.呪縛
「い、行かないで」
モリは開け放たれた扉に立ち塞がり、呆然と呼吸を止めたマヤに懇願した。
「お願い。助けて……」
後ろ手に扉を閉じると、伏し目がちに目を泳がせた。
しかし、彼女の心中は別の場所にあった。治療者としての性が、男の <傷> を網膜に映し続ける。
「あの傷の為なのね」その声は震えていた。
「あれを治療しろと、そう言っているのね……」
彼女の問いかけに、少年の頭が縦に揺れた。
「でも、おかしいわ。あれはいつのものなの。あんなに平気でいられるような、生易しいものじゃない」
自問自答を繰り返すマヤに、少年はぽつりと零した。
「悪魔のせい」赤毛の隙間から沈んだ碧眼が覗いた。
「兄さんは、悪魔に、憑かれている」
「悪魔……兄さん……?」
マヤは目を細めた。その謎めいた言葉に寒気を感じながら、引っかかる疑問から離れられなかった。
「彼が、あなたの兄さん……」
無人とまで言われた月の塔。ここに血の繋がりという、生命の営みが根付いていたとは。
「あなた達はここで暮らしているの。他にも誰かいる?両親は?教えて、モリ」
畳みかける質問に首を捻ったモリは、手の甲を噛んで答えた。
「いない。ぼくたちだけ。飼われているの。ここは犬小屋だよ。ぼくは犬なんだって。兄さんも。犬なの。クロエの犬」
──クロエ──
男が幾度となく呟いた豹変の呪文。その <クロエ> という響きが、むやみに感情に触れた。
「クロエのせい。あの傷、クロエが来ると酷くなるの。本当だよ。大きくなるの。ねえ、どうしよう、マヤ。兄さんを助けて」
モリは歩き出していた。うわ言のように繰り返し、当惑したマヤに近寄る。彼女の瞳の奥には、モリのひたむきな碧眼が映っていた。
「クロエ、て……」
「クロエは悪魔だ。兄さんを喰らう悪魔。駄目なの。逃げられないの。飼われているから。逆らうと打たれる。知ってる?ぼくは打たれるの。兄さんも。兄さんは……丸ごと喰われるよ」
頭がおかしくなりそうだと思った。彼は何を言っているのか。しかし、閉ざされたここには何かが蠢いている。それは、彼らの様子を見れば一目瞭然だった。
「待って、待って、モリ」
攻め寄る感情に呑まれ、己の領域まで侵入を許してしまう。呼吸を乱された不安に、身を乗り出す少年を遮った。だが、彼は近付くのを止めなかった。
「マヤ、ねぇ、助けて……お願い……」
直視する視線から離れられない。じりじりと退く一方で、全力で懇願する少年の力強さに、抗えない魅力を感じた。
「 <餌> を持って来る。マヤ。兄さんが、喰われるよ……」
「モリ……」
ここへ攫《さら》って来たのはモリ。その不信感が完全に消えた訳じゃない。でも、少年の赤毛が揺れるたび、その唇が動くたび、湧き上がる母性を抑えられなかった。
モリを抱き締めていた。これで、先の見えない幻夢から、逃れられなくなると分かっていながら。
「やってみるわ」
同じ兄弟でありながら、薄汚れた一枚布を纏った堕天使。その惨めな身なりに同情したのだろうか。理由は何であれ、ここに捨て置くことなど出来そうにもなかった。
モリは身体を強ばらせた。柔らかな綿に包まれた心地良い感触。記憶の底辺に置き去りにしたものが、泡のように浮き上がる。
伝わる人肌の温もり。甘く漂う花の香り。規則正しい鼓動。初めて感じる安らぎに目を閉じると、彼女の背中に両手を回した。
「やってみるわ。あなたの兄さんを助ける。それには、あなたの協力が必要よ。出来る、モリ?」胸元に埋めた頭に、そっと囁いた。
モリは重い瞼をゆっくりと開き、鼻先にある鎖骨を通して言った。
「助けて、くれるの……どこかに行ったりしない?」
長い睫毛が震えていた。
「私に出来る限りのことをしてみるわ。約束する」
マヤはどうして口を突いて出たのかと思った。しかし、もう後に引くことは出来ない。少年に希望を与えてしまったのだから。
「ぼくも出来る。兄さんを助ける」頬が艶やかに光った。
「クロエから逃げる。悪魔だからね。骨まで喰われる前に。だって、兄さんは、ぼくの……」
数多の人間を見て来た。その人生も。だけど、ここの住人はその誰よりも、根深い業に囚われている気がした。
呪われた城。月の塔。
はしゃぐモリの首筋を一瞥し、逃れられない呪縛にかかってしまったと感じた。
サポートをしていただけると嬉しいです。サポートしていただいた資金は資料集めや執筆活動資金にさせていただきます。よろしくお願い申し上げます。