十六 壊れ者たち
墨色の煙が霞んだ夕空に上っていく。解放を終えた書を書庫の前で燃すことで一日の使命を終える。
もう、幾日すぎただろう。早朝から夕暮れまでひたすら解放の術を唱えた。ボクの証は腫れ、真の名を辿る指先の皮も薄く捲れている。
奴は一日の解放を終えると再び枷を嵌め、ボクを屋敷へと連れて行った。そして、まるで人形の様に風呂に入れ、ボクの髪を愛でながら、ゆっくりと櫛で梳いた。
一度「変態……」と、言ってやった事があった。すると、平手が飛んできて、立ち直れない程の屈辱を与えられた。
ボクはもう、何も感じなくなっていた。今は真の名を解放する為だけに生きている。そう思う事にした。
ライゾが書庫の天窓から様子を窺いに来た事もあった。ボクの側に舞い降り、首を左右に揺らしながら鷹の目特有の射貫く様な眼差しで言った。
──大丈夫か。
妖霊に心配されるなんて。その時のボクは心の奥底で自嘲しながら言った。
「どうみえる……?ボクはまだ人間?」
彼は言っている意味が分からないとでも言わんばかりに首を傾げた。
「何も感じないんだ。バージの事も。悲しくて仕方がないはずなのに涙が出ない。胸が締めつけられるだけで痛みを感じない。ボクはもう、人間じゃなくなったのかもしれない」
鷹が困った風な顔をした。それが可笑しくて、ライゾの頭から背中を撫でながら言った。
「ごめん。おまえには理解できないよな……」
暫しボクの手の感触を味わいながら、鷹は喉を鳴らした。そして、閉じた目を開けて言った。
──バージノイドはおまえの仲間が連れ帰った。
ボクはその言葉だけで安堵した。「そうか……」と呟き、周囲の気配を感じながら言った。
「もう帰りな。他の妖霊に察知されると攻撃される。ありがとう、来てくれて。凄く嬉しいよ」
ライゾは頷き、ボクを見つめながら翼を広げた。
──ジェラがマリッドの元へ行った。希望を捨てるな。
そう言って空気を切る様に羽ばたくと、書庫内を旋回して再び天窓から姿を消した。
「エドモスの……?」
あれ以来、ボクは希望を捨てなかった。城壁の外には民がいて、仲間がいる。彼らは生きて生活している。取り残されたのはボクと奴だけではないのだと、それを糧に解放を続けた。
ボクは見上げた。無数の真の名が煙となって溶けていく。空は次第に雲に覆われ、鬱屈した色に染まっていった。
小雨がぱらつく。気持ちいい。顔を撫でる水滴がボクの汚れを流してくれるかに思えた。
城壁の監視塔にはアンクーが居た。奴は城門の外をしきりに眺め、身動き一つしなかった。だけど、ボクの視線に気付いたのかふと振り返り「ここへ来い」と言った。
言われるがままに監視塔へと向かった。螺旋の階段を上り、顔を出した頂上には平原を見渡せるほどの景色が存在し、世界の広がりを感じた。
奴は手招きした。その顔は笑みを浮かべている。何かを企んでいるのはすぐ分かった。ボクを傷つける事が奴の最上の楽しみだからだ。
「見てみろ」
ボクはゆっくりと歩み寄り、奴が視線を送っている先を見た。
そこには、城門や城壁に縋るが如く複数の民がいた。不自然な方向に折れ曲がり、遠目でも絶命しているのが分かる。
「どうして……」
全身が震えた。衝撃とも怒りともつかない感情が湧きあがる。目の前が暗くなり、呼吸が荒くなるのを感じた。
「民に手出ししないと言ったじゃないか!」
奴に掴みかかろうとした。すると、奴はそれを払いのけ、飄々と言った。
「勘違いするな。オレが仕掛けた訳じゃねえ。武器を持ち、城壁を越えようとしたのはあいつらの方だ」
「武器を……どういう意味……」
ボクは恐る恐る返した。滴り落ちた雨が目に入る。
「解放された民は自由を手にするどころかおまえを恨んだ。不安と恐怖に苛まれて。全ての民が解放を望んでいると思うか?生まれて今まで支配に甘んじていた連中だ。中には裏切られたと感じる奴もいる。その証拠に口々に何て言っていたと思う?『真の名を呼ぶ者を殺せ』だ」
そう言うと、皮肉めいた笑いを漏らした。
ボクを殺す……すぐにその意味を理解することができなかった。ただ茫然と、笑い転げるアンクーを見つめ、胸で拳を握り締めた。
「これで分かっただろう?オレは助けてやったんだ。感謝していいくらいだぜ」
奴はボクの手を掴み、ドッドッドと心臓が鳴るボクの鼻先に顔を寄せて言った。
「愛と憎しみは、紙一重だ」
それでも解放をやめなかった。自分の使命に従って。いつか変わるはずの世界に希望を馳せて。奴に何を言われようと、民の屍が城門を取り囲もうと、間違ってはいない。そう自分に言い聞かせて、心を無にした。
ついに全ての解放を終える時が来た。真の名を呟く声も出ない程、両手の指が擦り切れる程、時は経ち、証からは血が滲んだ。
使命を終え、暫く書庫の階段に座り込んでいた。身体を持ち上げる事も困難で、このまま石の様に固まっていたかった。
後は妖霊の書を取り返す事。そして、それを開く事。難題は山積みだったが、今のボクにできる事はもう何も無いように思えた。
「ファリニス……次はどうするべきか教えてくれ……」
自分自身に問いかけた。書庫を出る前に。一人で居られる今の内に、聴くべき声に耳を傾けねばと、藁にも縋る思いで問いかけた。
彼女はボクの中に居る。答えを知っているはず。彼女がボクを解放しない訳は、まだやるべき事があるからだ。今までボクを導いた様に……。
改めて書を失った、がらんどうの書棚を回し見た。ここに答えはあるはず。全ては書庫で始まり、書庫で終わるはずだ。直観に似たモノがボクの中に蘇った。
鍵は何処だ。妖霊の書の鍵は……──
途端に激しい倦怠感に襲われた。それと同時に皮膚が身体から引き剥がされていく様な感覚。がくがくと全身が振動し、気が遠くなっていく。
ファリニスが居る。ボクの身体を支配していく。彼女が何かをしようとしていた。ボクに真実を告げようと……。
「起きてますか、バージ」
ファリニスは蝋燭の灯った廊下に佇み、扉を少し開けた。
「起きている。ファリニス、どうしたんだ、こんな時間に」
扉の隙間からバージが顔を出した。
「ちょっと気になる事があって……理由を訊かず、書庫までついてきて貰えますか」
バージは眉を顰めたが「分かった」と、直ぐに剣を取り出し、ファリニスの前を歩いた。
二人は闇夜を抜け、無言で書庫へと向かった。
「ここで待っていてください」
彼女はバージを書庫の前に置き、ゆっくり中へ入って行った。
天窓からは月の明かりが漏れている。それだけを頼りに、中二階の踊り場へと走った。書を抜き、背板の一部に手を当てると「スリザズ」と術を唱えた。引き出しがカチャリと飛び出し、そこには金箔の妖霊の書が入っていた。それを急いで取り出し、再び書で隠すと、足早に階段を下りた。
彼女は妖霊の書を掴んだまま、書庫をぐるりと見渡した。そして、重厚な書棚が並んでいる隙間に入り込み、床石の一つを見つめた。
次に隠し持っていたナイフを取り出すと、「イス」と呪文を唱えながら床石の一つを外し始めた。
慎重に、床石を壊さない様に。石との繋目にナイフを突き立て術を繰り返す。
すると、床石は見事に外れ、ごつごつした土が剥き出しになった。それを、再び掘り続けた。
程なくして、ポッカリ空いた空洞に妖霊の書を入れ、土を被せた。そして、床石をその上に戻し「アルジズ」と、保護の呪文を唱えた。
妖霊の書は床石の下に埋まった。だが、それを知る者はいない。彼女だけが真実を知っている。
ボクは目覚めた。階段に座り込んだまま、手摺にもたれかかっていた。幻を見ていたのだろうか。ファリニスのメッセージがボクを動かす。やはり彼女はボクの中に居た。どうするべきか伝える時を狙っていたんだ。
アンクーの手に渡った物は偽物だった。本物の妖霊の書は、床下に埋まっている。それを悟ったボクは立ち上がった。
ファリニスの方が上手だ。アンクーの目論見を予見し、誰にも知られる事なく隠していた。恐らく、ブロジュでさえ知らないだろう。
彼女が書を埋めた床石の前まで歩み寄った。この下に本物の妖霊の書がある。
ボクはどうするべきか悩んだ。この床石を壊すには術を使わなければならない。術を不用意に使えば奴の不完全な証と共鳴する。だけど、奴は解放を終えた事を知らない。それを利用するべきか。今しかチャンスはないかもしれない。このチャンスに賭けてみるか。どうなろうと、まずは術を使ってみる。
迷っている暇などなかった。どちらにせよ、ボクの嘘が通用するほど奴は馬鹿じゃない。
術を放った。ファリニスと同じく「イス」と。だけど、ボクに残された微かな気力では、彼女のかけた強固な呪文を一度で取り除けるほどの力はなかった。
「イス、イス!」
何度も術を放った。身体からエネルギーを絞り出す様に。すると、思った通り扉を叩く音がした。
「何をやっている!今すぐ書庫から出てこい!」
まずい。このままでは気づかれてしまう。
「今すぐ出てこなければ容赦しない!」
アンクーは語気を強めた。奴は本気だ。一旦諦めるしかないのか。また機会はあるか……。
ボクは呪文をやめ、さり気なさを装った。そして、解放を終えた書を抱え、扉を開けた。
「何をやっていた」
奴の目は蛇の様に感情がなかった。それが余計に凄みを増し、ボクは内心震え上がった。
しかし、「解放を全て終えただけだ」と淡々と返した。「これから書を燃す。そこをどいてくれ」
どこまで通用するか分からない。だけどなるべくいつもの様に奴の側を通り抜けようとした。
すると、奴はボクの腕を掴んだ。余りにも乱暴で、バサバサと書が落ちる。
「嘘をつけ。他に術を使っていたはずだ。ほんの僅かだが、証に変化を感じた。一体、何を企んでいる」
「何も」ボクは奴を睨みつけて言った。
「ボクを見れば分かるだろ。そんな力はもうどこにも残っていない」
「ふざけるな!」平手打ちが飛んだ。
「オレが騙されると思ってるのか!書庫で何をしていた。言え!」
踏みとどまる程の力もなかった。ボクは地面に倒れ、切れた唇を舐めて言った。
「何もしていないと言ってるだろう。今のボクに何ができると言うんだ。それは、おまえの方が知っている」
奴はほくそ笑んだ。ボクの何もかもを奪い、こうして操り人形の様に傍に置いている。それがどれだけの痛手と屈辱か。今となっては抵抗する力さえ湧かない。
だが、奴はそれで見逃すはずはなかった。ボクの顎を持ち、上を向かせると「おまえを甘やかしすぎたようだな」と言った。
そして、片手を上げた。忽ち奴の傍らには、複数の異形のモノが姿を現した。
「やつを立たせろ」
ボクの両腕を異形のモノが掴み、無理やり十字に立たせた。
「妖霊の書が偽物だと気付かなかったとでも思ってるのか。オレを舐めんじゃねえ!」更に平手が飛んだ。
「本物の在りかをオレが思い出させてやる。それが出来ない場合、貴様が生きる意味はねえ」
アンクーは異形のモノから鞭を受け取った。そして容赦なくそれを振り上げ、ボクの胸元へと振り下ろした。その一撃は服をも裂いた。ボクは悲鳴を上げ、歯を食い縛った。
それでも狂った様に振り下ろす。肉を裂く程の痛みが走り、次第に気が遠くなっていく。無数の傷跡から血が滲み、胸部の服も布切れの様になった頃、今度は背中へと鞭を撓らせた。
奴はボクを殺す気でいる。そう感じた。ボクは一時の玩具でしかなく、そして、何も語らないボクは用済みになったのだと。
妖霊が紅い口を開けて笑っているのが見えた。それでも秘密を教えない。教えてたまるものか。ボクの命に変えても秘密は守り抜く。
日が沈み、全身の肉が引き裂かれた時、ボクは、自分の終わりを悟った……。