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アスリートの妻は料理上手⁈

テレビを見て、「あっ、またか」と思わず独りごちてしまったのは、もう2ヵ月ほど前のことだ(さっさと文章にしろよってかんじだが、どうしても寝かしてしまう悲しい習性……)。

子どもたちを送り出したあとの朝食時、かなりの確率で点いている朝のテレビ番組。その日はある「元スポーツ選手」がゲストで、輝かしい現役時代の実績を支えたモノや人について語っていた。

別にその選手に興味もなく、熱心に見ていたわけでもなかった。ある部分に引っかかりを感じるまでは……。
思わず音量を上げ、食い入りるように画面を見始めたのは、その方のパートナーが登場してからだ。


「アスリート妻あるある」に昔から辟易

登場といっても、「妻がサプライズ出演」したわけではなく、VTRに出てきただけなのだが、私は目が離せなくなった。色鮮やかな食事の写真とともに、「妻が栄養バランスを考えた食事で支えてくれた」といったコメントが流れたからだ。

そして、冒頭のセリフ(独り言)につながったわけだ。

本当にもう、何度見せられてきただろう。
10代の頃から繰り返しテレビで流れてきたこの「型」は、私の中で「アスリート妻あるある」として定着している。正直もう飽き飽きとしているのに、またもや目撃してしまった……。その日一日、私の心には「げっそり感」が充満していた。

「夫の夢は私の夢」は本当か?

「アスリートと結婚する人って、相手の夢を自分の夢に変えられる人だけなんだな」。
そう悟ったのは、恐らく高校生ぐらいのとき。その当時、別にスポーツマンを好きだったわけでも、結婚したかったわけでもなかったけれど、繰り返される「あるある」を前に、ぼんやりそんなことを思った記憶がある。

当時のアスリートの代表格だったのは、プロの野球選手やサッカー選手だ。そうした人たちと結婚するのは、大抵普段テレビなどでよく見かける美人アナウンサーやモデル、女優といった人ばかり。すごく活躍していて将来有望そうなのに、結婚するとみな揃って仕事を辞める(もしくは控える)。

そして、なんだか見かけないなぁ……という期間を経て、再びメディアに登場する際は、「〇〇選手を食事面から支える」「〇〇〇(栄養系の資格)を取得してコンディションに気を配る」といった文言ともれなくセットである(そして、多くはなぜか子だくさん)。

結婚した途端に、パートナーの夢が自分の夢より大切になる。または、パートナーの夢が自分の夢にとって変わってしまう。そんなことあるのかな……。釈然としない気持ちを抱えながら、まあ、そういう人もいるかもしれない、と自分を納得させようとしていた。

好きな人を支えること=お世話すること⁈

でも自分が年齢を重ねるにつれて次第に、「この女性たちって、本当は自分の夢とかあったんじゃないのかな……」と気の毒になっていった。もちろん、全員が「絶対に叶えたい夢」や「キャリア」があるわけでもないだろうし、本人がやりたくてしていたことかもしれないけれど(だったら外野が口出しすることはないのだけれど)、何となく「それが幸せだから」とか「そういうものだ」と信じ込んでいただけなんじゃないのかな、という気持ちを強くした。

冒頭に登場した元スポーツ選手のパートナーも、やっぱり「フードマイスター」(正式名称は忘れてしまった)のような資格を取得し、徹底してバランスの取れた食事を提供したそうだ。

「なんか強迫観念でやってない?」
私は無意識に、テレビにそう突っ込んでいた。

料理好きの女性がいることも重々承知しているし、それが楽しくて仕方ない方もいるだろう。でもどうしても、「妻である私がやらなきゃ!」って思い込んでいる部分があるように見えてしまうのだ。

「アスリート妻あるある」にイライラする私の心の奥底には、「相手を好きで支えたいと思うことと、物理的にお世話をすることって、一緒じゃないはずだ」という強い想いがあった。

「ケア」が押しつけられている、と理解した日

今回の久々に遭遇した「アスリート妻あるある」は、心にモヤモヤが再燃してげっそり感を引きずったものの、それだけでは終わらなかった!
過去と同じくあいまいに流したりせず、きちんと「辟易」の原因を分析することができたのだ。

その結果、次のような状況を、はっきりと理解できた。
日本の社会には、女性というだけで当然のように、「(夫や子どもを)ケアできるよね」「ケアすべきだよね」という考えが長らくはびこっている。
私はそれに、すごく腹を立てていたのだ。

こうやって冷静に分析できたのは、間違いなく、最近活発になったジェンダーやフェミニズムの議論のおかげだ。
今年のゴールデンウィークには「一人ジェンダー週間」と勝手に銘打って、一気にフェミニズム系の本をたくさん読んだし、WEBでも気になる記事のチェックを習慣にしている。それらの情報により、私は自分の違和感の根っこにある「ケアの理論」に気づくことができた。

当時のプロ野球やプロサッカー選手の結婚って、まさに「自分をケアしてくれる人を探す行為」に見えたのだなぁと、今なら気づくことができる。多くの選手が若くして結婚し、その途端に、パートナー(妻)はまるでその人のケアを専門で担うマネージャーのような役割を担い、表舞台から去っていく。食事面はもちろん、生活面をまるっと任せられる「お母さんの代わり」を見つけているのでは、と疑ってしまうこともあった。

「相手を好きになって一緒にいる」ということは、お互いの存在をリスペクトした上で、精神的に支え合うため、と思っていた私は、 彼らの行動がすごく不可解に思えた。だって、ケアを担ってほしいなら、専門の栄養士を雇ったらいいじゃない? プロなんだから。なんで妻にそれをさせるのだろう?
私の頭の上には、いつも?マークがいっぱい浮かんでいた。

自分自身のケアは自分で 子どものケアは夫婦で

もうお気づきかもしれないが、実はこれって、アスリートだけの話じゃないのだ。アスリートの結婚は、すごくわかりやすい事例なだけ。専業であろうとなかろうと、女性は「主婦」として夫や子どものケアを担うもの、という考え方が、いまだに根強く社会のベースにある。一部の人には、それが「当たり前」として刷り込まれている。

これをはっきりと認識することができて、私の心はモヤが晴れるようにすっきりしたのだった。

もちろん、認識したからといって、突然社会や制度が変わるわけではない。けれど、可視化することができたなら、それに「ノー」ということができる。
私は女性というだけで、夫のケアも子どものケアも、一人で担ったりしません!と、宣言することができるのだから(笑)。

ちなみに我が家の場合は、基本的に夫は私のこの性分を理解しているからなのか、はたまた元々働く母親の元で鍛えられたからなのか、妻である私に家事や育児という名のケアを押し付けてくることはない。分担で揉めることはあれど、つねに半々を目指してくれてはいる(まあもちろん、常に分担割合の問題は抱えているけど)。

少し前まで、「アスリートあるある」でイラついている私はものすごく少数派に違いない、と思っておとなしくしていたのだけれど、最近似たような意見や感想をよく見かけるようになったので、長年の「違和感」を改めてまとめてみた次第である。

もし「実は私も……」という人がいたら、(エア)ハイタッチして、励まし合って生きていきたい。



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