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千由昔話〜英会話習得への道〜②
前回カナダに行くと決めたことは書いた。カナダも広い。あんた何処に行くんです?
迷わずバンクーバーを選んだ。理由は飛行時間が1番短い直行便があるところという、これまた安置な考えで決めた。
私がワーキングホリデーに出かけた時は、23歳までしかこのビザが使えなかった。やむを得ない理由がある場合は、25歳まで。現在は30歳までとなっている。
18歳から正社員で働いていた会社を辞めて渡航した。といっても前に書いたことがあるので記憶にある人がいるかもしれないが、予定ではギリギリまで務めるはずが、上司と大喧嘩し、こんな会社なんて辞めたらぁーーと渡航半年前に辞職。すぐに歯科助手のバイトが見つかって渡航日まで、地元の歯医者さんにお世話になった。
出発の日、友人達が空港まで送ってくれた。叔母夫婦も来てくれた。母は来なかった。この時も金銭的にもメンタル的にもなんにも助けてはくれなかった。でも平気!!既に私1人で出来るもん!の境地にいた私はなんの痛手もなかった。
初めての一人旅である。帰国のチケットはない。行きの空港で、後に友達となるみどりと出会う。みどりの記事は以下を参照。
空港にはホストファミリーが迎えに来てくれていた。フィリピン人のお母さんとカナダ人のお父さん、6歳になる娘さん。
このご家庭は私が初の下宿人だった。これがラッキーであった。何故ならみんなお金の為に(ほぼ)やっているので、こ慣れてくると扱いが雑になったり、その家の子供を無料で面倒見させられたりする(ベビーシッター)らしいと、後々通う語学学校で聞いた。
私は初下宿人だった為、非常に至れり尽せりなもてなしを受けた。3食付きだったので、学校の日はお弁当も作ってくれた。お弁当といっても日本のようなものでなく、飲みもの、バナナとかりんご丸ごととサンドイッチ。夕飯は、フィリピン人のお母さんが作ってくれるのでよくお米が出た。これも助かった。お米大好きで3食パン死ぬと思っていたからだ。
この家庭での1番の先生だったのが、6歳の娘さんだった。当時「R」と「L」の発音に苦戦していた私に「umbrella」を教えてくれたのは彼女だ。この混在するタイプの「R」と「L」は、日本人泣かせの単語だと思う。時に大人よりも根気強く何度も単語を区切っては発音して見せてくれた。
渡航からすぐに学校が始まった。学校まではバスで20分。終点のため絶対に間違わない。問題は帰りだ。そもそもバンクーバーのバス停には名前がない。日本だと「〇〇前」などと名前が付いていて、親切に次はどこどこですよと教えてもらえる。それがカナダにはない。風景を覚えておきピンポンを押す。方向音痴の私にはそもそも無理ゲーだったのだが、タクシーで通うわけにもいかない。
1日目帰りにここだと思って降りた所は、全然知らない場所だった。周りを見渡すと浮浪者のような人達もいて、足がすくんだ。たまたまあったマクドナルドに駆け込んだ。お店の人に片言で、「迷った。助けて。電話して」とホストファミリーに電話してもらい、迎えに来てもらった。心細すぎて泣きそうだった。2日目からは行く時によく見ておき、なんとか帰りつくことができた。この時携帯電話も持っていなかったので、本当に大変だった。
学校のクラス分けテストは散々で、私が1番下のクラス。みどりはもう1個上のクラスで、独りぼっちだったが、それでもクラスの大多数を占める日本人と仲良くなった。
クラスに1人だけイケメンの青い目スイス人がいて、気に入られたのかなんだかんだ誘ってくれたのだが、2人とも英語が出来ないためそこから恋人とはいかなかった。
瞬く間に2ヶ月が過ぎた。
この時点で私の英会話能力は、驚くほど進化していた。
それには理由があった。
③につづく