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02: 【評価の消えた世界とは】ほとんどの問題から解放される可能性も?

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気がつけば、世界が変わっていた?


知らぬ間に、いろいろな問題が気にならなくなっていたと言うか、問題とすら思わなくなっていた。

こんなことが可能だと思いますか?


生きていればいろいろな問題が起きてくると思います。

身近な小さな出来事かもしれませんし、1個人ではどうすることも出来ないと感じてしまうような自然の驚異かもしれません。

そんな時、ただただ運命を嘆くことしかできないのでしょうか?

そんな考えも有る中で、自分は少し違った見方をしています。

普通、出来事が起きる際には次のように考えていると思います。

「うれしい出来事があった」とか、「悲しい出来事があった」というようにです。

普通は、初めから「いい出来事」だったり「悪い出来事」のように「いい/悪い」が出来事と結びついているように思っています。

そうなると、出来事が起きた時点で、「いい」「悪い」は決まってしまいます。

そして、運の悪いと思っている人は「悪い出来事」ばかり起きる。

自分はなんて不幸なんだと嘆いたりするかもしれません。

そして、この「悪い出来事」が起きる事を、自分ではどうも出来ないため無力感を味わってしまうかもしれません。

こんな考え方に対して、自分は疑問を持っています。

「いい出来事」や「悪い出来事」があるわけでは無いと。

実際には、自分に都合がいいと思えた出来事を「いい出来事」と呼び、自分にとって望ましくない出来事なら「悪い出来事」と呼んでいるのではないかと。

つまり、「いい」や「悪い」は、「起きた出来事」に対する「自分自身の評価」の結果なのです。

この評価は、人それぞれの「過去の経験」や「環境」などに影響されると思われるので、とても「主観的」な物だと思います。

ここで最初に戻ると、いろいろな出来事が起きますが起きた時点では、出来事にどんな意味あいも付いていません。

そこで、その出来事に対する「個人的な評価」が行われた結果、出来事に「意味が付加される」ことになります。

この意味づけは、「ポジティブシンキング」「ネガティブシンキング」での考え方とも似ています。

「ポジティブシンキング」や「ネガティブシンキング」で使われる場合には、出来事への意味づけを、「故意にどちらかに方向付け」することですから。

自分の場合は、これらの考えとは「別の視点」で話そうと思います。

出来事が起きた時に、自動的に行われている「意味付けの習慣」に注目します。


自分が思うには、通常は無意識的に進行する「意味づけの習慣」から抜け出さない限り「運命の奴隷状態」だと思っています。

何故なら、出来事が起きる自動的「幸せ」になったり「不幸せ」になってしまうからです。

本人の意識が介入する余地がありません。

別の言い方をすると、「自分自身がまだ存在していない」ともいえます。

全ては、運命の操り人形のように、ただ運命が進んでいくだけの人生になってしまいます。

この状態から抜け出すにはどうしたらいいのでしょうか?

ある意味簡単です。

それは、出来事が起きた時、無意識に行っている「評価の習慣」を止める。

これだけです。

こう言ってしまうと難しくはありませんが、身についてしまった「習慣を変える」と言う意味では大変なことです。

だって、この習慣は物心がついてらずっと行っているのですから。

すぐには止まらないと思います。

なので、もし「止める」決心をしたら、何度失敗したとしても続けることです。

実際のやり方としたら

「出来事が起きた」時、自分の心に「評価」がやってきます。

「いい」とか「悪い」と言う「評価」です。

それに気づいたら、「評価」してしまった事実に気づいて下さい。

これだけです。

何度も同じ「評価」がやって来ると思います。

その都度、「しまった、また評価してしまった」と思い出してください。

あとは、止めないで続ければ「いつか」は「この習慣から抜け出す」ことが出来ます。

その時が来たら、世の中の出来事には「いい」も「悪い」も無かったと気がつくと思います。

ただ、出来事が起き続けるだけなのです。

そこには、「どんな評価も無い世界」が広がっています。



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