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リラックスに集中!

古い友人とラインを始めた。
保育園時代には、折り紙ができなくて泣いているところを助けてもらった。小学校は一学年一クラスの小規模校だったから、六年間、同じクラス。学校になじめずにいた高校一年の時には、学校こそ違ったけれど、同じ駅を使っていたから、毎朝、会えた。そのほんの五分間に力をもらって、けっこうつらかった一年を乗り越えられた。そのときのお礼をあらためて言えて、ほくほくと嬉しい。
そのやりとりのなかで先日、「リラックスに集中してね」という言葉をもらった。

え? リラックスに集中する?

リラックスと集中、心を整えることに興味のある人にとってはよく聞く言葉だと思う。集中しようとすると緊張してしまうし、リラックスすれば弛緩して集中できない。相反する言葉のようだけど、どちらも大切にすることで、どちらにも偏らない心の状態が生まれる。スポーツの世界では、その境地を「ゾーンに入る」というのかな。

わたしが育ったときの教育方針はスパルタだった。英単語は何百回と手で書いて覚えたし、部活動の練習では、理論を教えられないまま、ひたすら量をこなすことを要求された。先生に逆らえば、体罰が待っていて、とにかく理屈ではなく体で覚えることが優先された。

体罰自体は、明治時代に国民皆兵のための軍事教練が学校に取り込まれたせいらしい。明治初期に来日したラフディオ・ハーンはむしろ、日本の先生たちが欧米のように鞭を使わず、生徒に対して兄弟のように優しく面倒をみていると書いている。でも、言葉ではなく、見よう見まね、繰り返しの練習で身につけることをよしとする考えは、もっと根深い、伝統的なものだと思う。

高校時代に読んだ「弓と禅」(オイゲン・ヘリゲル)では、哲学者らしく理論によって弓道を学ぼうとした著者が、その日本の伝統と衝突しながら、弓道を体得していくさまが描かれていた。「わたし」ではなく「それ」が的を射る。凄いなあ、かっこいいなあ、真似しようとは思ったものの、すぐに忘れてしまった。
この著書のことを思い出したのはずいぶん後、働き出してからのことだ。ブラッドベリが、そのエッセイ(*)のなかで、この本を取り上げて「小説も同じだ!」と熱っぽく書いていた。

仕事→リラックス→無念無想

たくさん仕事をする。すなわち、たくさん書く。すると、文学的に評価されたいとか売れたいとかいう気持ちからくるプレッシャーから解放されてリラックスできる。リラックスした無念無想の集中状態では、創造性が湧いてくる。

なるほど。

というわけで、わたしにとって、集中とリラックスとは、長く大事にしてきた馴染みのある言葉だった。
だけど、我が友は、その二つの言葉をさらりと別の形で使ってくれた。
「リラックスに集中」してね。

そうそうそう。すぐ忘れてしまう。集中しようとすると、どうしても緊張してしまう。体が硬くなる、重くなる、遅くなる。リラックスよりも、集中することに集中してしまうから。リラックスが、集中するための方便に過ぎなくなる。

たぶん、わたしだけじゃなくて、日本の多くの人が同じ状態になってるんじゃないかと思います。「勉強しろ」「真面目に仕事しろ」の言葉の裏には「緊張しろ」が含まれちゃっているから。どこかで「集中しろ」と「緊張しろ」の取り違えが起きている。リラックスとは、それ自体で、集中するに値する、価値のあるものと思えなくなっている。ありとあらゆる生活のなかで修行を強いられているけれど、その修行の目的は、リラックスによる解放、その先の創造性だということが忘れられている。

さっそく、その夜は、心して入浴し、お湯の暖かさに緩んでいく肌の感覚に集中してみました。がちがちになっている肩や腰から力を抜くことに意識を向けると、温泉にきたみたいな気分になりました。温泉に入るときは「せっかく来たんだから」と思って、自然と入浴に集中する、だから、あんなに気持ちがいいんでしょう。

つまりは、もつべきものは友だった、という話です。


*このエッセイは「禅と小説」です。「ブラッドベリがやってくる 小説の愉快」(レイ・ブラッドベリ 小川高義訳・晶文社)に収録されています。


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