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算数嫌いの数学への憧れ


 音楽に引き続き、どうして嫌いなもの不得意なもののことが書きたくなるかなあ。負けず嫌いだから、他の人が面白がってるものは、自分も得意になりたいと思って意識するからかもしれない。

 算数はほんとに嫌いだった。足し算とか掛け算とか、まだ簡単なうちは、分かりきっていることを何度も繰り返し練習させられるのが退屈で仕方なかった。そして、少し難しくなってくると、解けないことが悔しくて、こんなの分からなくても、足し算引き算、掛け算引き算が分かれば人生で困ることないのに、と思っていた。とくに図形問題がダメだった。

 あるとき、大学で数学専攻だった先生に「どうして算数が嫌いなんだ?」と訊かれたことがある。「国語だったら、意味さえ合っていればマルがもらえるのに、算数は答えが一つしかない。決まり切ってて、つまらない」と言ったら、先生はふっと笑った。「そりゃ、君たちがやってるレベルの算数はそんなもんだ。けど、本当はもっと自由なものなんだぞ」 あの時の先生は、教師の顔をしていなかったと思う。自分の愛するものを身の程知らずにけなしたガキンチョに、一人の個人として対峙していた。だからだろう、算数のその先に何があるんだろう、と子供ながらに想像してワクワクした。

 高校時代には、数学の得意な子がわたしのノートをみて「うん、その解き方でも間違いじゃないけどね、こっちのほうが綺麗に解けるよ」と別の数式を書いてくれた。綺麗? 数学で綺麗って、どういうこと? 小学生のときの先生の言葉と「綺麗」が結びついて、ますます好奇心がそそられた。

 だから、わたしは数学者を志したのだ、という話には、もちろんならない。

 同じく高校時代、先生が黒板にX軸Y軸と三角錐を書いた。「この三角錐を回転させると」 回転させる? 三角錐を? かろうじて頭の中に三角錐を思い浮かべることはできた。しかし、それを回転させることはできなかった。さらに、その回転と、おどろおどろしげな数式とを結びつけることは不可能だった。ああ、ここがわたしの限界だ。はっきりとそう悟った。頑張れば何でもできる、そう信じる子供だったわたしが、あんなに、くっきりはっきり、自分のできることとできないことの境目に気づいたのは、あれが初めてで、その発見はいっそすがすがしかった。頑張っても無理なことはある。

 だから、わたしはきっぱりと、ド文系の道を選んだ。

 それでも、数学への憧れがずっとあって、時に数学に関する読み物が読みたくなる。定番とも言える小川洋子さんの「博士の愛した数式」はもちろん面白かったし、数学者岡潔氏の「春宵十話」もよかった。これは数学というより教育についての随筆だと思うけど。
 そうそう、オイラーの公式について知ったときもワクワクした。あらゆる数式を踏まえて、ようやく理解することのできる美しい式だそうだ。自分には絶対に手の届かない世界だからこそ、数学者とか物理学者とかが、新しい発見をするときの頭の状態って、どうなってるんだろうな、と想像するのが楽しい。わたしにも分かるように言葉で説明してもらいたいけど、音楽や料理を言葉で説明できないのと同じで無理なんだろう。

 エジソンは、1+1は2だと習った時、「それはおかしい。二つの泥団子を合わせたら、一つの大きな泥団子だ」と言ったそうだ。その主張も分かるけど、やっぱり、決まり切ったこと、当たり前なことの例えとしては、1+1は2がもっともしっくりくる。人間にとっての論理のフォーマットが1+1は2になっているってことだろう。先に、1と1を足すとできる数字を2とすると決まっていて、そのうえで、1+1は2と計算しているのだから、同じことを別の言い方で言っているだけとも言える。そこから発展して、壮大な数学世界が広がっていくんだから、人間の考えることって、やっぱり面白いなあ。1+1が3になるという理解の仕方をする生物も宇宙のどこかにはいるんだろうか。

ちなみに、ド文系なわたしも、今の仕事でパーセントと加重平均はよく使う。数学の世界では、初歩の初歩の考え方なんだろうけど、この概念を自分で発見しようとしたら大変なことだ。算数が足し算引き算以外にも役に立っているってこと。嫌いだった算数にあらためて感謝しておきます。


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