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月のない夜 上

第一章:満ち欠けのない月

秋の終わりの夜、空は一面に冷えた暗闇を敷き詰め、無数の星たちが淡く光を放っていた。月だけがそこになかった。まるで誰かが夜空からそっと取り除いてしまったみたいに、ぽっかりとした黒い隙間が広がっていた。

芹澤直人は、毎朝決まった時間にコーヒーを一杯淹れる。それは、彼の日常に組み込まれた最も安定した習慣だった。彼は静かな部屋の中、窓の外に流れる枯れ葉を眺めながらコーヒーを啜った。

彼の頭の片隅には、いつも北嶋綾音の姿があった。彼女は、大学の頃からずっと彼の隣にいた。ふとした瞬間に直人は彼女の笑顔や仕草を思い出してしまう。コーヒーショップのカウンターに座るとき、隣の席が空いていると、彼は何となくそこに彼女が座っている気がする。もちろん、彼女はどこにもいないのだけれど。

「直人、月を見に行かない?」
大学時代、彼女はそう言って、彼を無理矢理夜中の公園まで連れ出したことがあった。夜空に浮かぶ、完璧な円を描いた月が二人を照らしていた。「月って、すごく不思議だと思わない?いつも満ちたり欠けたりして、でも同じ場所にいるの」彼女は言った。その時、直人はただ頷いた。「不思議だな」と思ったのは、そんな彼女の言葉よりも、目の前にいる彼女の存在だった。

しかし、直人はその気持ちを言葉にすることはなかった。それが彼の習慣だった。感情を閉じ込め、ただ波のように押し寄せる時間に流される――彼にはそれが正しいことのように思えた。

ある夜、直人は夢を見た。湖のほとりに彼は立ち、その向こうにはどこまでも続く銀色の水面が広がっていた。水面にはひとつの丸い月が映っている。だが、空には月がない。何かが欠けている気がして、彼はその場に立ち尽くした。ふと、湖の向こう岸に綾音が立っているのが見えた。彼女は何かを言おうとしている。だが、彼の耳にはその声が届かない。彼が何か言葉を発しようとした瞬間、目が覚めた。

「今のは、何だったんだ?」
それ以来、彼は自分が何を失ったのかを考えるようになった。そして、一つの答えが彼の中に浮かび上がった――彼は、綾音に「好きだ」と言えなかったのだ。


つづく

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