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静寂に浮かぶ月 上
第1章: 静かな月の導き
その夜、彼は月を見ていた。それはまるで、彼の人生を見透かすかのように大きく、冷たく、しかしどこか温かみのある光を放っていた。季節は春の終わりに差し掛かり、夜風はまだ少し肌寒かった。川沿いの歩道には、昼間の喧騒が嘘のように静寂が広がり、彼の靴音だけがその空間にリズムを刻んでいた。
「こんな夜に歩く人間なんて、自分くらいなものだろうな」と彼は思った。けれど、それが嫌ではなかった。むしろ、この静けさこそが彼の求めていたものだった。都会の喧騒や人間関係の煩わしさから逃げ出したいという思いが、ここ数ヶ月彼を支配していた。そんな時にふと訪れたこの川沿いの道は、彼にとって唯一の逃げ場になった。
月明かりが川面に反射し、さざ波の揺れに合わせてきらきらと踊っている。その光景はどこか懐かしいものを思い起こさせた。幼い頃、夏の夜に父親と一緒に釣りをした記憶だ。父の手のひらの暖かさ、虫の音、そして月明かり——それらが断片的に甦り、彼の胸にわずかな痛みを伴う。
ふと立ち止まり、川に架かる古い石橋を見上げた。その上には一人の女性が立っていた。長い黒髪が月明かりを受けて、まるで絹糸のように輝いている。彼女は何をしているのだろう、と彼は思った。手すりに手をかけ、遠くを見つめるその姿には、どこか物憂げな空気が漂っていた。
彼は迷った末に、橋の方へと歩き始めた。なぜか足が勝手に動いたのだ。彼女に話しかけるつもりはなかった。ただ、その存在に引き寄せられたのだ。そして、橋の近くまで来た時、彼女が小さく呟いた声が聞こえた。
「月が落ちる…」
その言葉は、彼の中に奇妙な余韻を残した。
つづく
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