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月影の門 上

第一章 月の影を踏む

 夜風が静かに田園を渡っていく。稲穂は波のように揺れ、月光を浴びて銀の海を広げていた。彼はその中を歩いていた。背に負った刀は、鞘の中で眠ったままだった。

 名を高坂隼人(たかさかはやと)という。江戸を出てからすでに五日。草鞋の紐は擦り切れ、旅の疲れが膝に重くのしかかっていた。

 「そろそろ宿を探すか……」

 遠くにぼんやりと燈火が見えた。それは小さな宿場町の端にある茶屋の灯りだった。ここに来る途中、川のほとりで出会った旅の僧が言っていた。

 ――この先に古い茶屋がありましてな。主の娘が、時折、不思議な歌を詠むのです。月の影を踏んだ者は帰れぬ、と。

 高坂は薄く笑った。迷信深い話だったが、奇妙な響きが耳に残っていた。

 茶屋に入ると、年老いた女将が迎えた。奥の座敷に通されると、湯呑みの湯気が静かに上がっていた。その向かいには、娘が座っていた。

 「月の影を踏んではなりませぬ」

 娘は低い声でそう言った。月明かりの下で、彼女の横顔は白磁のようだった。

 「なぜだ?」と、高坂は訊いた。

 娘は微笑んだ。

 「それを知るのは、旅の方の運命でございます」

 茶屋の外に出ると、空には満月が昇っていた。水田に映る月の影は、はっきりと形を成していた。ふと、高坂はその影を踏んでみた。

 途端に、夜が揺らいだ。辺りの景色が変わり、まるで異世界へと引き込まれるような感覚に襲われた。背筋を冷たいものが這い上がる。

 「これは……?」

 茶屋は消え、田園の中にひとり立っていた。夜風の音もなく、ただ月だけが空に浮かんでいた。


つづく


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