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春を待つ月 下

第三章:春を待つ月


 翌朝、江戸の町に新たな噂が流れていた。昨夜、旗本の用心棒を斬った侍はどこかへ消えたという。

 「きっと、またどこかで生きているさ」

 酒肆の親爺が呟いた。

 佐吉は舟を出し、櫓を漕いだ。月は今夜も変わらず空にあった。

 夜が更けると、ひとりの女が舟に乗り込んできた。藤色の小袖をまとい、目を伏せている。

 「どちらまで?」

 佐吉が問うと、女は少しだけ顔を上げた。

 「向島まで……月の見えるところへ」

 佐吉は驚いた。まるで昨夜の侍と同じ言葉だった。

 舟を漕ぎながら、彼は尋ねた。

 「あの、侍の知り合いで?」

 女はしばらく黙っていた。そして、ぽつりと言った。

 「夫です」

 佐吉は櫓を漕ぐ手を止めかけたが、またゆっくりと舟を進めた。

 「……無事で?」

 「ええ」

 女の声は静かだった。しかし、ほんの少しだけ、微笑んでいるように見えた。

 舟は静かに向島へ向かう。川面には月が輝いていた。

 佐吉は思った。侍は、生きているのだ。たとえ姿を消したとしても、彼の想いはこの月の光のように、どこかで生き続けるのだろう。

 春は、もうすぐそこまで来ている。


おわり


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