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春を待つ月 上

第一章:月の渡し

 江戸の町は夜でも静かに息づいていた。昼間の賑わいとは違い、夜は人の気配が遠のき、灯籠の明かりが川面にぽつぽつと滲んでいる。隅田川はゆったりと流れ、月の光を映していた。

 「もうすぐ春だというのに、まだ肌寒いな」

 佐吉は襟を立て、冷えた手をこすった。彼は深川の船宿で働く渡し守で、夜な夜な人々を舟に乗せていた。舟を頼る客はさまざまだ。商人、浪人、遊女、時には訳ありの者もいる。今夜の客もまた、どこか影を纏っていた。

 侍だった。黒羽二重の着物をまとい、角帯に刀を差している。だが、剣の腕を誇るような威圧感はなく、むしろ静かな悲哀が漂っていた。

 「どちらまで?」

 佐吉が問うと、侍はふと目を細めた。

 「向島まで」

 「向島のどこへ?」

 「月の見えるところなら、どこでもいい」

 佐吉はそれ以上尋ねず、黙って舟を漕ぎ出した。月は天に高く昇り、川面に長く伸びていた。その光が舟をゆっくりと照らす。

 「月は変わらぬものだな」

 侍がぽつりと呟いた。

 「戦があろうと、世の中がどれほど移ろおうと、月はいつもそこにあります」

 佐吉の言葉に、侍はわずかに微笑んだ。

 「だが、人の世はそうはいかぬな」

 彼は遠くを見つめたまま、呟くように言った。その目の奥には何かを決意した者の色があった。舟はやがて向島の岸に着き、侍は静かに舟を降りる。振り返ることなく、闇の中へと消えていった。


つづく


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