『大晦日の奇跡』 上
第一章:音の消えた夜
大晦日の夜、葉子はひとり中目黒の古い喫茶店にいた。世間の人々が紅白歌合戦や年越しそばの準備に忙しくしているころ、彼女は本を片手に、コーヒーの湯気に視線を泳がせていた。店内は昭和風情の残る内装で、どこか時間が止まったような雰囲気が漂っている。壁掛け時計の秒針だけが微かに音を立てているのが分かる。
「ここで年越しをするなんて、ちょっと変わってるね」
ふと聞こえた声に顔を上げると、見知らぬ男が隣の席に腰掛けていた。歳は葉子と同じくらいだろうか。シンプルな黒のセーターにジーンズ姿。どこか無邪気な表情が印象的だった。
「あなたも同じじゃないですか」と葉子は少し笑って返した。
「まあね。でも僕は、何か大事なものを見つけたくてここに来たんだ」
そう言って、彼は静かにコーヒーを一口飲んだ。大晦日に、古びた喫茶店で何を探しているのだろう。葉子はその言葉の真意が気になりながらも、深入りするのは躊躇われた。
二人は短い会話を交わしたあと、沈黙の中でそれぞれの時間を過ごした。葉子は読んでいた本の内容が頭に入らなくなり、気が付けば時計の針が12時を過ぎていた。
「ねえ、外に出てみない?」と男が提案した。
「どうして?」
「ただ、見せたいものがあるんだ」
彼の言葉に、葉子は戸惑いながらも了承した。喫茶店の外に出ると、空は一面の星空だった。都会の明かりの隙間から覗くその光景に、葉子はしばし言葉を失った。
「これが君に見せたかったものさ」と彼は静かに言った。その声にはどこか深い安心感があった。
つづく
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