盛岡西廻りバイパスの謎(2)杜陵の国道ヒストリー
盛岡市周辺で進むバイパス工事の原型となった半世紀前の構想について調べるシリーズ。2回目は、西廻りバイパス構想の話をする前に、盛岡市街地の「旧国道4号」と「旧奥州街道」がどのルートを通っていたのか少し紹介する。構想が出てくる時代の前史に触れていきたい。
前回はこちら。
盛岡市内の南北街道史
国道4号は、東京の日本橋から青森の青い森公園までを結ぶ国道である。元となる道路は江戸時代、「奥州街道」「奥州道中」「松前道」などと呼ばれていたとされるが、定義がまちまちだ。明治以降は「陸羽街道」となり、明治に国道6号(東京─函館)、大正の国道4号(東京─札幌)を経て、戦後に国道4号(東京─青森)となった。
以下、面倒であるため国道となる以前の道路は「街道」と呼ぶ。
資料を参考に、江戸期の街道と、盛岡バイパス開通(1969年)直前時点での国道ルートを図に示した。参考までに現在ある道路や建物も示している。
江戸期から明治初頭までは、上の橋や本町通りが街道だった。そこから先は、現在の中央郵便局の北側でカクッ、カクッと折れて、上田の通りに入る。さらにNHK前を突っ切って、黒石野、松園へ。四十四田ダムの東側を縫って渋民に至るルートだった。緑が丘のアネックスカワトクの前に一里塚があるのは、街道が通っていた名残である。
夕顔瀬橋から上堂、滝沢分レに続く道は、江戸期は鹿角街道(国道282号の原型)であった。渋民方面への街道は、明治中期に上堂、分レ経由の新ルートに切り替えられ、盛岡市街地のルートも中の橋、内丸、材木町を経て夕顔瀬橋に至る経路に変わっている。
切り替わった正確な時期は文献によって異なり、「1892(明治25)年ごろ」(岩手県編『岩手県史 第10巻』p.137 1965.8、杜陵印刷)、「1892年」(「滝沢市の歩み」制作委員会編『滝沢市の歩み』p.480 2018.03、滝沢市)、「1891年」(福田武雄、下斗米昭一著『岩手県市町村地域史シリーズ21 滝沢村の歴史』p.262 1990.5、熊谷印刷出版部)と若干の差があるが、だいたいこの時代のようだ。
盛岡市街地は、中央通りの区間は広かったようだが、桜城小学校の横や、材木町(拡幅前)のような狭い区間もあった。何よりもクランクカーブの多い状況が問題になっていた。
東廻りのバイパス開通
現在の国道4号のルートになったのは、大阪万博の前年である1969年(昭和44年)のことだ。
バイパス開通を記念して発行された冊子『盛岡バイパス』(建設省岩手工事事務所発行)によると、県が1956年度からパイパスルートの調査検討を始め、1959年度から国が用地の買収を開始。1966年から部分的に開通し、1969年5月25日に全線開通した。総事業費は32億円という。今の物価では32億円では建設できないだろう、と思う。
バイパスはご存じの通り、川久保(南仙北)から茶畑、加賀野、北山、上田、高松を経て、上堂に至るルート。道幅は18.5m(当時)で往復4車線。盛岡市街のすぐ東側を回り込むようにして広い道路が建設された。
開通記事の不穏な末尾
盛岡バイパス全線開通の翌日、岩手日報の社会面は大きな写真付きでパレードの様子を報じた。見出しは「車つらねてスイスイ 盛岡バイパス 全線開通を祝う」というもの。
内容は開通式の様子や工事の経緯、渋滞緩和やスピードアップに対する期待が書かれており、至って普通のバイパス開通の記事である。よって、ここで記事全体の引用は行わない。
ただ、この記事の最終段落だけはどうしても紹介したい。
繰り返すが、これはバイパスが全線開通した日の翌日の記事である。この段落が一つあるためにお祝いムードが拍子抜けしていて、図書館で思わず笑ってしまった。高度成長期の発展や開発というのは、それはもう、大変なものだったのだろう。
個人的に、現在の盛岡バイパスは街に近くて混みやすい道路という認識を持っている。同じ認識の方は多いのではないかと思う。ただ、開通当時からその懸念があったとすれば、驚きだ。
そして西廻りの時代へ
ここまで、盛岡の国道4号の歴史を雑に紹介してきた。街道筋が変遷し、国道となって、戦後にバイパスができた。ところが、折角できたバイパスでは不十分ではないかとの指摘が、早くも新聞上でなされていた。
新聞記事にあった「市中心部をもっと大きくう回するバイパス」が、構想としてお目見えするのはこの4年半後のこと。次回から西廻りバイパスの話に戻る。