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盛岡西廻りバイパスの謎(4)遂に一部区間が事業化[西BP①]

盛岡市周辺で進むバイパス工事の原型となった半世紀前の構想について調べるシリーズ。1ヶ月ぶりの更新になった4〜6回目は、西廻りバイパスの構想ルートのうち、最初に建設された「盛岡西バイパス」の区間を取り上げる。

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イケイケな時代の中で

1970年代の中頃に構想された西廻りバイパスは、昭和も終わりになった80年代後半、現在「盛岡西バイパス」となっている区間の具現化に近付いた。
少し、時代背景を雑に説明する。
(実際の所、生まれていないから分からない)

80年代の盛岡はイケイケだった。80年に川徳が肴町から菜園へ移転、81年には盛岡駅ビル・フェザンが開店した。82年には盛岡ー大宮間で東北新幹線が開業し、「ハンサムトレイン・やまびこ号」が走り出した。駅前の込み入った街区は新幹線開業に合わせて区画整理され、ホテルやオフィスビルが建設された。

盛岡駅前。新幹線開業に合わせて街並みが大きく変わった(らしい)

今の街並みを構成する交通網や商業施設が、この時代に次々誕生していったのである。

85年には、1998年の冬季五輪を盛岡に呼ぼうとする活動が本格化した。これは長野に敗れる形となったものの、93年の世界アルペンの招致に成功した。89年の市制施行100周年も、お祝いムードに一役買ったと思われる。

盛岡市勢発展が著しい中、膨らむ都市機能や住宅需要の受け皿として、雫石川の南側に注目が集まった。この地域は、後に「盛南」と呼ばれることになる。

こうした街の拡がりが、一本の道路を誕生させた。

「廻り」が取れた計画

1984年、建設省(現・国土交通省)によって「盛岡西バイパス」が事業化された。同年から実施調査が始まり、86年からは用地買収に着手、87年には着工した。

「西廻り」ではない。廻らないのである。

西バイパスは、盛岡市本宮字泉屋敷と上厨川字前潟を結ぶ4.7kmの道路として事業化された。都市計画道路としての名前は「向中野前潟線」。矢巾町から滝沢村に至る壮大なバイパス構想に比べれば短い。

夕暮れの本宮交差点。当初は西バイパスの端はこの場所だった。本宮字泉屋敷の一部は現在「本宮4丁目」となっている

道路の方角も、盛岡を南北に貫く「縦軸」の西廻り構想に対して、西バイパスは東西方向に長い「横軸」に近い線形だ。本宮までだった時代の西バイパスだけを見れば、西廻りとは別の話のように感じてしまう。

しかしながら、西バイパスは、西廻りバイパスと関係があるのだ。いや、建設省は建前上、「国道4号のバイパスの一部を作り始める」とは言わなかったかもしれない。でも、地元はその建前通りに受け取らなかった。

87年7月24日、昭和62(1987)年度補正予算が可決、成立した。この中に西バイパスの建設費が盛り込まれていた。

翌日の岩手日報朝刊は、1面トップ扱いでこのことを報じ、「盛岡西バイパス着工へ」の見出しが躍った。記事の第2段落には、以下の記述がある。

 盛岡西バイパス(四・七㌔)は国道46号改良事業の中に含まれており、国道4号の渋滞解消を目的として岩手郡滝沢村の通称「分レ」と紫波郡矢巾町を結ぶ盛岡西回りバイパス(約二十㌔)構想の一部が事実上着工する。

岩手日報 朝刊 1987.7.25付 1面記事「盛岡西バイパス着工へ/遊水地(一関)に14億円/建設省の本県配分/海員学校(宮古)を新築」より引用

地元は、この道路が横軸ではなく、縦軸実現への一歩なのだと期待したのだろう。

10年余の年月を経て、形を変えながら西廻り構想が動き出した。

なぜ国道46号なのか

一つ、謎がある。なぜ国道4号ではなく、国道46号として事業化されたのか。先に紹介した記事の第6段落に、その理由に関する記述があった。

 盛岡西回りバイパスは、四十一年に開通した盛岡バイパスが、周辺の市街地化などで機能が低下したため、市中心部を西回りにう回するバイパス構想として持ち上がった。県、盛岡市、都南村が五十六年から盛南開発構想と関連づけて国に建設促進を要望してきたが、建設省は国道4号の二本目のバイパスとしては事業化が難しいことから、当面国道46号のバイパスとして事業を進めている。

岩手日報 朝刊 1987.7.25付 1面記事「盛岡西バイパス着工へ/遊水地(一関)に14億円/建設省の本県配分/海員学校(宮古)を新築」より引用。盛岡バイパスの開通年は、最初の開通区間のものであると思われる。

道路を作るお題目が弱かったのか、あるいは構想が大き過ぎたのか。

西大橋付近。近年設置された国道46号の標識が見える

「盛南開発構想のためにも、国道4号の長大バイパスは必要である」というお題目では、いつ事業化されるか分からない。「横軸の道路を新設すると、市街地を横切る国道46号のバイパスにもなるし、盛南開発にも資する」というアプローチで意義付けが行われたと想像する。

いずれにせよ、大本命の国道4号ではないものの、当面は国道46号として工事がなされるようになった。

盛南開発が実現後押し

閑話休題。先ほどから何度も出てきている「盛南開発」という言葉がある。盛南開発は、本宮地区周辺で行われた土地区画整理事業だ。

西バイパスの事業化は、この盛南開発の構想・計画が貢献したとも言える。少しその動向を見ておく。

『盛岡南新都市土地整理事業 事業誌 盛南に夢馳せて』(独立行政法人都市再生機構(UR) 岩手・秋田都市開発事務所発行,2014.3.20)という本がある。非常によくまとまっているこの本から、少し概要を拾ってみる。

『盛南に夢馳せて』は盛南地区だけでなく、戦後の盛岡の街づくりに関して分かりやすく書かれている。餅は餅屋ならぬ、街は街屋だ。

仙北町駅西側一帯の広大な農地は、1970年ごろから将来の都市発展の方向として目されていた。71年に公表された盛岡市の市政発展計画では、「盛南新市街地」という言葉が初めて登場。都市基盤の整備において「従来、市街地の拡大に大きな制約となってきた雫石川を克服し、南部に新市街地を形成」「未来の南部地域(紫波郡下)に接続する市街地とする」と記されていたという。

南部、南部って、この辺は全部「南部」ではないか、というツッコミはとりあえず置いておく。

70年代後半には予備調査、80年からは地域振興整備公団(現UR)が基本調査を実施。84年に公団側が行った中間報告では、21世紀の盛岡市の都市像や備えるべき機能に触れながら「機能の収容は既存の市街地では困難」「適地の盛南地区に拠点開発する必要性がある」とされた。

このころの完成イメージイラストには、「仮称・中央大橋」から南側(現・杜の大橋〜杜の道)は「100m道路」として、札幌の大通公園のような街路と公園が描かれている。流石は、イケイケの時代である。

「西バイパス」が出てくるのは、ちょうどこの辺りの話だ。

西バイパスへの道を案内する標識。盛南地区(ゆいとぴあ盛南)とは切っても切れない関係だ。

盛南開発はこの後、盛岡駅裏の旧国鉄工場の跡地活用とも連携するようにして、準備・調整が進んでいく。盛南開発の基本計画は91年に国土庁長官から認可を得た。94年には区画整理事業としても認可され、以降は開発が本格化する。事業完了は2013年のことだ。

構想と若干違うルート

バイパスの話に戻る。盛南開発に呼応して事業化された西バイパスの線形は、シリーズ第1回で紹介した西廻りバイパスの構想線(1970年)と少し異なる。構想線は、東北自動車道のすぐ東側を通り、飯岡十文字付近を通過するルートになっていた。

現在のルートになったのは、盛南開発のために本宮地区を通らなければならなかったからだと思う。それが、西バイパス建設のお題目だからだ。

とはいえ、盛南開発が例え無くても、西大橋から東北道に沿って南下する、あの構想線では無理だったのではないかと思う。

次回は少し、ルート変更について邪推をしてみたい。東北道の建設工事中に騒ぎとなった、ある大発見も関係するのではないか、という、根拠の無いお話。

第5回へ続く。

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