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盛岡西廻りバイパスの謎(13)医大移転で機運高まる[南区間・3]

おばんでございます。毎度放置の西廻りシリーズ、久々の更新です。


盛岡市周辺で進むバイパス工事の原型となった半世紀前の構想について適当に調査するシリーズ。今回からは、矢巾町から盛岡市永井へ至る国道4号「盛岡南道路」の事業化に至るまでの経緯を取り上げる。

前回はこちら。

1970年代中盤に矢巾町土橋から都南村、盛岡市を経由し滝沢村分レへ至る「西廻りバイパス」の構想ルートが明るみになって以降、30年余、矢巾町内でバイパス建設の話に進展はなかった。

一方、21世紀に入り、将来的にバイパス建設を大きく後押しする出来事が起こる。あの「世紀の移転事業」のことである。


世紀の移転事業が開始

2002年。初夏にサッカーの日韓ワールドカップが開催され、日本各地が熱い雰囲気に包まれた年。盛岡においては、東北新幹線の八戸開業を12月に控えていた。

その、秋のことである。
9月11日、あの米国の忌まわしいテロ事件から1年を迎えたその日、とあるニュースが地元紙の1面トップを飾る。

見出しの文言は「岩手医大と付属病院 矢巾に移転計画」だった。

盛岡市内丸の岩手医大・内丸メディカルセンター。2019年秋までは、ここが大学病院であった。(2024年8月)

キャンパスから大学病院に至るまで、まるごとの大移動。医大の移転工事記録誌には、その始まりについてこのように記されている。

「世紀の移転事業」の歴史は、矢巾町長が岩手医科大学に対し、キャンパス移転用地を提供する用意があると申し入れたことに始まる、とされる。

『6000日の工事記録 岩手医科大学世紀の移転事業』(岩手医科大学総合移転整備計画工事記録保存会/事務局:岩手医科大学法人事務部 編・発行、2019年12月)p.47より引用。

当時の矢巾町長が、岩手医大に移転を働きかけたのだ。

矢巾町役場を北側から撮影。(2024年8月)

矢巾町が医大に土地を提供できる旨を申し入れたのが2001年2月だという。そして、翌2002年8月には用地取得の交渉に入ることが大学の理事会で決まった。明るみに出たのが9月だったのである。

このことが、平成後期の町の発展はもちろん、西廻りバイパスの進展にまで影響を及ぼすことになる。

現道を拡幅したばかり

医大の移転が決まった2002年当時、盛岡西廻りバイパスは今の国道46号「盛岡西バイパス」の本宮─前潟間のうち、一部が開通している程度。まだ、本宮以南を国土交通省が建設するかどうかは未確定だった時期だ。

西区間の進捗がこんな状況だから、南区間はなおさらである。当時は、矢巾町内の国道4号が1997年にようやく全区間4車線化になったばかりだった。

矢巾町南部・間野々地区の国道4号。(2024年7月)

現道でさえ近年整備されたばかりの状況で、西廻りバイパスの起点となるはずだった土橋白沢線の計画は、相変わらず動きがなく、この後も停滞する。

当初の西廻りバイパスのうち、現在の「西バイパス」の区間をつくるのがやっとの時代に出てきたのが、医大移転の計画だったのだ。

矢巾と盛岡をどう結ぶ

一方で、医大移転の話は着々と進み、計画発表から3年後の2005年12月には南側が着工した。

当時、医大の学内向け資料には、病院完成時の利用者のアクセスルートとして、気になる図が載っていた。下は工事記録に載っていたその図の内容を基に情報を整理し、私が作った図である。

『6000日の工事記録 岩手医科大学世紀の移転事業』(岩手医科大学総合移転整備計画工事記録保存会/事務局:岩手医科大学法人事務部 編・発行、2019年12月)p.52の図を参考に作成。筆者が加筆を大幅に加えていることに注意。

当時は矢巾町が盛岡からの大学病院利用者を、盛岡市の「都南中央橋口」の交差点から市道・町道(中央1号線)に誘導することを推奨し、大学側に説明していたようだ。

そして、将来的に都市計画道路「高田煙山線」が完成した際には、高田煙山線経由で医大エリアに車が入ることを想定していたようである。

高田煙山線の計画はその後廃止され、ほぼ同じルートで国道4号「盛岡南道路」の計画として生まれ変わったことは、これまでお伝えしてきた通りだ。

大学病院前を通る矢巾町道の中央1号線。(2024年8月)

いずれにしても、矢巾口(矢幅駅入口)交差点からの流入をメインには考えておらず、病院へは医大エリアの北側からダイレクトに車を流入させたかったことが見て取れる。

大学施設から段階的に移転が進んでいく中、最終的な病院移転に向けて、盛岡からの玄関口となる矢巾町北側の交通網整備に注目が集まっていく。

今お伝えした町道レベルの話から、徐々に高速道路との接続の話が持ち上がり、国道4号の在り方に関する議論も出てくるのだ。

病院より先に整備された医大のキャンパス。(2024年8月)

上米内湯沢線が国道に

医大施設の移転が進む中で、盛岡では西バイパスの本宮以南の区間が2004年から徐々に南進。2013年には盛岡市永井の西バイパス南口まで開通した。

2016年には、国道46号の本線だった前潟―館坂橋―NHK前(高松の池入口)の区間が県道・市道に降格した。同時に、西バイパスが46号の本線となり、永井─津志田間の県道36号上米内湯沢線が国道に昇格。46号の起点は津志田になった。

県道から昇格した盛岡市津志田の国道46号。(2024年10月)

こうして、後述する「南道路区間に並行する国道の現道」ができあがったのである。

矢巾にスマートICを

少し遡って、2013年6月。東北自動車道の矢巾パーキングエリアに、ETC専用のスマートインターチェンジが併設されることが決まった

隣の盛岡南インターから4kmしか離れていない矢巾PAに、スマートICが整備される一番の理由は言うまでもなく、医大の移転によるものである。

矢巾スマートICの下り線側出入口。(2024年9月)

もちろん、岩手流通センターの南口としての機能も期待されていただろうし、急速に発展する矢巾町の最寄りICとしての役割もあっただろう。単なる「救急車専用出口」以上の役割・機能を持った施設として計画されたのだ。

病院への案内看板が随所にあるICからの町道。(2024年9月)

矢巾スマートICは、大学病院移転を翌年に控えた2018年、県内のスマートICの第1号として開設された。救急車退出路としても活用されるこのスマートICへの接続も、後述する南道路のルート選定の検討材料となる

2019年9月に移転した大学病院。(2024年8月)

西バイパスの南進、スマートICの整備と、2018年までの間に、着々と南道路の整備を検討するにあたってのパーツが揃ってきた。そして、2019年秋に大学病院が矢巾へ移転した。

医大が移転した。スマートICができた。
ここから、状況は大きく動き始める。

次回へつづく。

※本シリーズは素人のサラリーマンが個人的に興味があるものを、根拠や資料の出典はできる限り示しつつ、推論を交えてまとめたものです。各行政機関等とは一切関係ございませんので、ご承知おきください。
※矢幅駅入口交差点は、歴史的経緯から便宜上「矢巾口」で表記しています。

参考文献

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