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あの指に帰りたい ~薫の場合①~

彼女が学校に来なくなってから、もう1週間経っていた。

薫のバイト先の居酒屋と彼女のバイト先のカラオケ店が近いこともあって、上がり時間が近くなるとメールのやりとりをして自転車で一緒に帰ることが多かった。

だけどあの日は、週末ということもあって薫のバイト先の居酒屋も繁忙日で、バイトが終わって携帯を開くと、早く終わったから先に帰るねと彼女から短い文面のメールが入っていた。
返事できなくてごめんということと、近々提出予定だった小論文か何かの話題のメールを返したが返信がなかった。早く帰って寝てしまったんだと思い、さほど気には留めなかった。


彼女とは高校1年から同じクラスで、同じ地元から電車通学でその高校に通っている生徒も少なかったので、お互い心細かったこともありすぐに仲良くなった。
社交的で常に周りに人がいる薫とは違って、彼女はあまり自己主張の強いタイプではなく休み時間も勉強しているか本を読んでいる「大人」なタイプだった。

薫も本を読むのが好きだったこともあって、彼女の読んでいる本を覗き込んでは、何の本なのかどういう内容なのか、読み終わったら自分が今読んでいる本と交換して貸しあおうと半ば強引に約束をとりつけていた。
清楚で端正な顔立ちをしていて、成績も学年トップの秀才なのに、過去の重大犯罪の事件ファイルやホラー小説を食い入るように読んでいる姿がなんだか面白くて、彼女の脳内はどうなっているのかと余計に興味がわいた。

2年になると別のクラスになってしまったけれど、彼女がバイトしているカラオケ店の近くで薫もバイトをはじめたこともあって、バイト帰りやバイトが休みの放課後にふたりで寄り道をして帰ることも増えていった。

その頃初めて、彼女が母子家庭で夜間も家でひとりでいることが多いことや、給付型奨学金で進学するつもりであること、学費や生活費のためにバイトをしていることを知った。
いわゆる普通の5人家族の家庭で育った薫がそんな苦労話を聞いてどんな言葉を返そうか、少し困惑していると、

「薫ちゃん、私にはこれが普通だし昔は色々あったけど忘れることなんて簡単なんだから大丈夫だよー」
と、いつも通りのくしゃっとした笑顔で言った。

ああ、こういうところなんだと思った。

彼女の強さや優しさは、きっとそれまでの彼女が味わってきた寂しさや悲しさや、この歳でまだ背負わなくていいであろう責任感から生まれたものなんだろう。
普通こんな状況におかれたら、私ならきっと家庭環境や運命という言葉や社会や大人たちのせいにして、盛大にグレてコンビニの前にたむろしているだろう。

彼女は決して、人の悪口を言わない人だった。努力家で、何があっても他人のせいにせず、逆境には自分の力で立ち向かえばいいといつも言っていた。

そんな彼女が薫にはとても輝いて見えて、彼女の新しい一面を知るたびに彼女のことが大好きになっていった。

それにしても、1週間も学校にも来ていないしメールも返って来ないのは絶対におかしい。
事故にでもあったか、お母さんになにかあったのなら事情を先生も知っているはずだが、彼女の担任も体調不良としか聞いていないらしい。

彼女の家は、薫の家から2ブロックほどの所にある市営団地だった。
一緒に宿題をやるのに何度かお邪魔したことがあったので、お見舞いに彼女の好きなジュースとプリンを買って行ってみよう。あまりに体調が悪そうなら、お見舞いだけ置いてすぐ帰ればいいし。

インターホンを押す。
少しして、ドアの鍵があく音がして中から彼女によく似た中年の、けれど高校生の娘がいるようには決して見えない綺麗な女性が顔を覗かせた。

「あの、私・・・」
「あなた、薫ちゃん?娘と同じ高校の?」

お母さんは、娘からよくあなたの話を聞いてたのよ、心配して来てくれたのね、と言いながらリビングに通してくれた。

「あのう、学校ずっと休んでてメールも返ってこないので心配で・・。重病なんですか?」

お母さんは少し俯いて、暫くしてすっと息を少しだけ吸い込んで、口を開いた。


「あの子、怪我をしてて精神的にも問題があって、今入院してるの。」

え、事故にでもあったんですか、とお母さんの言葉の途中で思わず大きな声が出た。

唇が震えていて、自分の左頬が痙攣しているのがわかった。
お母さんの唇も、小さく震えていた。

「帰りが遅くて心配してたんだけど・・・警察にも連絡して・・・でも怪我して何十キロも離れた道路で蹲ってるところを保護してくれた人がいて・・・連絡がきて。」

もう聞きたくない。これ以上聞いていられない。
心で耳を塞いだけれど、否応なしにお母さんの絞り出すような苦し気な言葉が私の脳内に入ってきた。


自分の顔から血の気が一気に引いて、汗と涙が噴き出してきたのも自覚できなかった。

本人がまともに会話できる状態ではないから詳しいことは分からない、何人かの男に車で連れまわされて暴行されて林道で降ろされたらしい・・・


少しでも聞きたくなくて、頭を抱えてテーブルに突っ伏した。
もう喋ることもできなくて、嗚咽をこらえようとしたけれど、到底できることではなかった。


あの日。
バイトが早く終わったから先に帰るねと言っていた日。
あの数分後には、彼女に酷いことが起こっていたのだ。

どうしてあの日、バイトの合間でもメールを返して、自分もすぐ終わるからと言って一緒に帰らなかったのか。

どうしてあの時彼女を一人にしたのか、守れなかったのか。

彼女がひどい目にあっている時に、いったい自分は何をしていたのか。デザートでも食べながら家族とくだらない会話で笑いあっていたのか。

あの時に戻りたい。
戻って、彼女を守りたい。
彼女が味わったであろう恐怖や絶望や悔しさや羞恥や憎しみや寂しさを、あの時に戻って全部消してあげたい。


どうして、あんなに純粋で頑張り屋さんで優しくて心が綺麗な子が、こんなひどい目に合わなければいけなかったのか。
たまたま鬼畜集団が、彼女に目をつけてしまった。許せない。許せない。

もう何でもできるなら、運命を入れ替えて自分が代わってあげたい。
今まで恋人は何人かいたし、その場限りで遊ぶような相手もいた。こんな自分ならまだ、一生引きずるような、二度と人と触れ合えなくなるようなまでの傷にはならなかったかもしれない。

けれど、彼女は違う。
私とはまるで違う、天使みたいな子なのだ。

彼女が今病院で一人で、どんな気持ちでいるのか考えたら、すぐにでも会いに行きたかったけれど。
かける言葉もない。今の彼女にはきっと、何の言葉も虚しくて無意味で迷惑だろう。

ただただ、黙って抱きしめてあげたい。

その痛みを少しでも、分けてもらうことができるんだろうか。



「忘れることなんて簡単なんだから」

そう言って、記憶の中の彼女はいつもの眩しい笑顔を私だけに向けてくれた。

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