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Chi vive qui?

 『えいやっ!と飛び出すあの一瞬を愛してる』小山田咲子(海鳥社)読了。
 
 今作は1981年生まれの筆者が、2002年から2005年の間に自身のブログにしたためていた記事をまとめたもの。そこに記されているのは、将来への希望と不安、他者への期待と諦観、社会に対する望みや好奇心、そして疑問といったことがらである。そうした、さまざまな要素を内包する人生との距離や角度をはかるための葛藤というのは、若者特有の命題であるともいえる。そして彼女も例にもれず、全身でその命題に立ち向かっていたのだということが、この作品からとてもリアルに伝わってくる。

 だからこそ、24歳でこの世を去った著者自身の人生のことを念頭に置いて今作を読んだ人にとっては(自分もそのクチではあるけれど)、いくつかのインターネット上のレビューがいうように「意外と普通の人だったんだな」という感慨が残るのかもしれない。とはいえ、彼女の言葉・文章には、読むものの心を掴んで離さない特別な何かがあるのも確かで、それは一体何なのか。

 今作の中に、大学で書道の講義を受けた日の記事がある。その中で彼女は、「漢字は文字の表意性と象形性を最も表現するものである」という趣旨のことを書いている。名前である「咲」という字を例にあげ、「つぼみから花が開くように、広がりを持たせるように書かなければならない」(意約)といい、それは「活字という情報伝達ツールになると失われてしまうもの」であるという。

 小山田咲子の言葉・文章は、まさに彼女のいう書道であり漢字であるといえるのではないか。それは、彼女にとって文章は「伝達」のためではなく「表意」のためにあるものだからで、それこそが彼女の文章を特別たらしめているのだと思う。

 21世紀初頭当時の世界情勢に対するやるせなさ(それは20年経っても変わっていない)、近しい人に対する敬意や親近感、美しいものへの憧憬を、彼女は何度も文にする。ブログ初期から読み進めると手に取るようにわかるのが、彼女の文章がより息の長い(つまり一文の長い)ものになっていることや、より説得力のある論理や筋道がつけられるようになっていることだ。しかしその一方で、生活の些細な出来事や社会の大きなうねりについてなど、そこに書かれている話題は実はそれほど変わっていない。だから、今作の冒頭で彼女の述べる「文章の練習」というのは、活字の限界を越え、より深く躍動感のある文章で自分の心を表現できるようになることであり、つまりこのブログは「表意」の練習の場であったのではないだろうか。

 個人的に特に印象に残っているのは、ベビーシッターのアルバイトについて書かれた日の記事だ。その中で彼女は、特に子供が好きなわけではなく、「ああ小さい人間がいるな」というくらいにしか思わない、と本音とも諧謔ともつかないことを言ったあとで、子を持つ親への都政の支援不行き届きや、親たちの生活の厳しい実態へと思いを馳せ、「将来のために今のうちに子供を触っとけばいい練習になる」と付け加えながら、同じ社会に暮らす他者に対する思いを文にする。わたし自身がまさに子供を持つ親だからというのも大いにあるだろうけれど、彼女の思いが本気であると手にとるように伝わってきて、なぜか涙が出てきた。なぜ本気とわかるのか?それをあえて説明するなら、小山田咲子という人は、ブログという活字メディアのなかで書道をやろうとしていたから、つまり「情報」ではなく「表意」をやろうとしていたから、ということになる。強引な論理で申し訳ないけれど、今のところそれ以外に説明のしようがない。

 そして、突然途切れてしまう今作を読んだあと、彼女のいない空しいこの世界にも小さな希望が持てるのは、小山田咲子という人が「意外と普通の人だった」からだ。彼女が、誰もが抱く葛藤に思い悩んでいた人であったからこそ、私たちは今もこの世界に、彼女のように本気で社会や他者のことを思い、自分にできることを探している若者がいるかもしれないと思える。今も、目黒川や、神楽坂や、早稲田や、砧公園や、三軒茶屋や、フランスや中近東やアルゼンチン、世界中を旅しているのかもしれない。だからこそ、小山田咲子という人は特別なのだと思う。

 今日からブログを書きます。noteはブログ全体のタイトルがつけられない仕様のようですが、自分のなかでタイトルは"Chi vive qui?"です。発音は「キヴィヴェクイ?」、イタリア語です。家にあった絵本のタイトルからつけましたが、気に入っています。なるべくたくさん書くので、読んでもらえたらうれしいです。(2024.11.10)

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