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子どもは他人か分身か
もうすぐ3歳になる息子がいる。
「自分の分身のよう」と子どもに思う親もいるようだけれど、自分は一度もそう思わずに今のところ来ている。
もちろん、「顔のここが自分の子どものころに似ているな」とか、「食べ物の好みが妻と同じだな」と思うことはあるし、親としての責任感も(おそらく)人並みにはあるし、愛情は日々感じている。
しかし、「分身と思うか」というと話は別だ。もちろん、そう思うことを否定しているわけではないし、それが子への愛情に繋がるのであれば素晴らしいことだと思う。でも、自分にとって息子はいうならば、とてつもなく自分に近しい「最愛の他人」という存在だ。
まだ自我すら芽生えはじめたばかりの息子に、自分自身を投影しながら接することは、親子の関係にとって何かフェアではない気がする。それも、息子を「分身」だと思えないことの理由のひとつなのかも知れない。
やがて確実に他者へと育っていく息子、とはいえ今は「自分」すらもおぼつかない彼を「他人」として尊重すること。つまり、時には同調したり、先導したり、教え諭したりしながら、どのように「最愛の他人」である彼と付き合っていくかが、親としての自分の命題のような気がしている。と言ったら大げさだろうか。
などと言いながら、ギターにレコードに自転車に、凝り性である自分の息子が、日がな一日プラレールの電車で遊んでいたり、週末の度に「電車に乗るだけ」のために出かけたがったりするのを見るにつけ、やっぱり「他人には思えない」のである。(2024.11.19)